たのしく、うつくしく。好作紹介 #12

~~ちょっといいかも陣形図式~~

そろそろブログも更新せねばと思いまして。
2000年代前半の詰パラを適当にめくって、よさそうな陣形図式をピックアップ。
なお、すべてチェックしたわけではないのでご了承ください。
いつもの「たのしく、うつくしく。」の理念からははずれますが、まあたまには。

では、最初は穴熊崩しを2作、ウォーミングアップとして。



松本誠氏作
詰パラ2003年1月

穴熊といっても、もう丸裸ですね。
2手目香合からまず読むと思いますが、分岐にあるとおり32銀成から34香と据えれば詰みます。
では桂合は……といったところで、44金を原形消去して44桂と据える構想が巧いですね。香合のときに目一杯働いていた金なので、意外性があります。
最後は角合から清涼詰とは、なんとも都合のいいものです。



高木道雄氏作
詰パラ2003年8月

こちらも丸裸ですが……。
3手目31角成が見えますが、11玉、21馬、同玉と進めるのは損。それよりも23香~21香成として角を温存しておきます。
次に23桂と一発捨てて、実はこれが質駒作り。角を取って収束にぴったりつながります。
陣形図式というより、収束からの逆算な気がしてきました……。

では今回のメイン2作。どちらも矢倉崩れ。



谷川浩司氏作
詰パラ2000年7月

さすが谷川プロというだけあって、目を見張る完成度。
初手に歩頭の限定打が入るのはびっくりです。同歩の変化は指将棋の本などに載っていそうな手順。
それにしても、奪った一歩をきちんと消費して、馬捨の収束につながるとは。初手に打った駒を最後に捨てるのは鈴川好み。
短大担当者も「けちの付け様がない。みんな好きなだけ褒めてくれ」の一言で解説を終わらせる絶賛ぶりです。



酒井博久氏作
詰パラ2005年5月

31角ではまったく続かず、14桂~32金が裏をかいた導入。
次に13歩と叩くわけですが、ここを先に13香とすると同玉、25桂、12玉、13歩、11玉で逃れる仕組みです。
続くポイントは17手目。ここで22角成とすると分岐にあるとおり、23角合で逃れ。角を品切れにするために金が先になるように限定されるとは、いや巧い。
最後は例の収束ですが、よくここにつながるものです。

陣形図式、創作はなかなかに難しいもので、詰キストを満足させる出来のものは少ないですね。
しかし捌きの手順には魅力があるものもあり、収束が決まっていれば価値は格段に上がります。むしろ収束さえ決まっていれば陣形図式として合格でしょうね。

さて、ここまで書いてきてふと、自作にどんな陣形図式があったかなと考えてみました。
せっかくの機会なのでいくつか紹介させてください。(こちらが真の狙いという説あり? いやもともと記事を書きだしたときはまったく予定していませんでしたよ!)



鈴川優希作
my cube 2009年10月

文句の出ない手付かずの矢倉囲い。
32龍以下豊富な持駒を活かして追うしかありませんが、5手目51金が陣形図式らしからぬ打歩回避の手です。だれしもが最初は52金から追うところだと思いますので、収束までささっと到達して、32歩を打つ段階になってあっと気付くのが作者としては見ていて楽しい、そんな一作。
自分の作品集にも収録予定でしたが、問題発生。18手目32玉の非限定は仕方がないとして、12手目12玉も非限定なのです。
これだけならギリギリセーフの範囲……と思っていましたが、12玉とした場合に22金以下の余詰発生。いわゆる変同余詰で、一昔前なら13玉の希望限定として許容されていましたが(むしろ12玉を誤解扱いする場合もあったくらい)、現在の僕の基準ではアウトです。

で、修正したわけですが。



15金……なんという不自然な配置。
陣形図式という価値が下がった今、改めて手順を見返してみると、51金以外の主張点が皆無であるとこに気付きました。(5手目63角の紛れは増えました。このときに45角成を防ぐための54歩です)
収束も打歩回避の性質上仕方がないとはいえ、ただのベタベタだし……。
というわけで、作品集に収録しません! この記事で陽の目を見たので満足!



鈴川優希作
初公開

これは素晴らしい作品 笑。
深い紛れを含んだ連続焦点捨から始まり、ド派手な53龍の突進。
収束まで緩むところなく、大駒をすべて捨てきっての詰上りはちょっと陣形図式とは思えない密度の高さです。まあ逆算なので収束が決まるのは当然ですが。
パラに投稿すれば短大首位を争えるのではないでしょうか。
で、なぜ投稿しなかったかと言いますと。

こちら→スマホ詰パラ好作選



55番 烏丸♪氏作

うーん……。これはほぼ同一手順ですね……。
盤面に未整理感がありますが、おそらく陣形図式を最大限に主張したかったということでしょう。
実際、鈴川作は92銀という駒を置いてしまっています。(端攻めを受けた後という解釈はできないこともないが)
いずれにせよ、ここまで類似してしまうと新作としての発表はできませんね。
烏丸♪さん、本作含めて発表は5作だけのようですが、何者でしょう?

だんだん自作紹介のほうが長くなってしまい、記事の目的を逸脱していますが、次で最後。



鈴川優希作
初公開

「収束さえ決まっていれば価値は格段に上がる」と書いたな……。
そう、たったそれだけの作です。
詰パラにはとっても投稿できない代物だったので、ここで公開できてよかったです。

はい、おしまい。

第10回たま研参加記 後編

民間の作品を家元が取り入れた具体例を見ていきましょう。
フラ盤の左下から選択して2作を比較できます。

不利先打


銀鋸


馬鋸


長手数


遠打


裸玉


煙詰


引き違い


四桂追戻詰



「同一の趣向」をめぐる考察
・模倣や剽窃という性格のものではない。
・アイディアは同一でも、完成度からすると「無双」「図巧」の側に軍配が上がる。
・偶然の一致という見方も可能であるが、詰将棋創作の最前線にいる将棋家が、民間作品を知らないというのも不自然。
・民間作品へのオマージュであるとともに、同じ土俵で創作したときの力量の違いを見せつけた「横綱相撲」?

これにて講義内容はおおよそ網羅できました。

僕としては古図式の知識がまったく貧弱で、伊野辺看斎などといった作者名にはほとんど馴染みがなかったものでしたが、(広い意味での)趣向の系譜を理解する上では非常に重要。
また、現代構想作家筆頭の方々が古図式の研究に打ち込んでいるということも踏まえて、詰将棋の体系的な理解に役立つものであることは間違いなさそうです。
詰将棋博物館のサイトで今や簡単に参照することができるので、時間のあるときには並べてみるのも一興でしょう。

今回の講義では時代の流れを幹として詰将棋の発展を見ることができました。たいへんな収穫といえると思います。
また講義最後の、マーケティング論と関連した将棋界の今後を見据える話も、コンピューターの台頭というまさに迫り来る事態にいかに向き合っていくかという指針が示され、特に我々の世代にとっては非常に興味深い内容でした。

ところで、以前スマホ詰パラについてTwitterで云々あったときのことを思い出し、講義を踏まえてこんな関係を考えてみたのですがどうでしょう。
日本将棋連盟=プロ集団ではあるが、それを活動の主体とするのではなく、むしろ意欲あるアマチュアに対するエンパワーメント策こそが将棋界の発展を推進するという論でしたが、ここで、
日本将棋連盟→詰パラおよび中心的詰キスト
アマチュア→スマホ詰パラおよび指将棋派
という置換を試みてみます。
とすると、詰パラ本誌に投稿するような作家は、スマホ詰パラの作品に必要以上に口出ししたり、ましてや敵とみなしたりするのではなく、そういった「詰将棋アマチュア層」に対するバックアップをなすべきである、という図式が見えてきます。
なんとも小さな世界での話ではありますが。
詰キストはなかなかに、「詰将棋アマチュア層」の作品に対してあれこれと口出ししがちかという印象がありますが、最近は僕はそのあたりに対してできるだけ静観するようにしています。
もちろん、大学の将棋部員に作品を見せてもらった、などという場合はいくらか改作のポイントを挙げる、ということもありますが。
詰将棋人口を増やしたいという理念の下に立つならば、我々がやるべきことは玉石混交の中に偶然によいものを見出したとき、内部に紹介する、または作者に詰将棋を勧めてみる、ということなのかもしれません。
スマホ詰パラを批判するのはお門違いというか、外部からそっと見守っておくのがよい関係なのかもしれませんね。
たまにいい作品が発表されていると本誌に出せよとなりますが 笑。

さて、たま研の続きを少し。
山川さんの講義の後は15分ほど休憩。第二部は角さんによる課題作紹介と、利波さんによる「作品を並べるだけ」コーナー。
たま研の講義は敷居が高い(大小詰物や豆腐煙プログラミングなどの回は特に難しかったとのこと、聴きたかった)という声を受けて、作品を紹介するだけならわかるだろうという発想で前回から二部構成になりました。
今回は、たま研第10回にちなんで古図式10番集。
古図式の中から第10番だけを抽出して50題集めたという、利波さんの苦労が忍ばれます。
薀蓄をはさみつつ順番にスタート。

なお、上の「遠打」の項で紹介されている無双ですが、これも第10番。取り上げられた際に、桂合位置の非限定について言及されました。
古図式をちゃんと並べていくと、意外なところでこういう側面が見えてきますね。

50題のうち最初に紹介された、初代宗桂の「造物」10番。

tsukurimono10.png

22飛、同角、53金、31玉、42金打迄の5手詰。
ところで2手目32香合は43金、同玉、53金迄で、妙手説に立つなら3手目も捨駒になるこちらが作意かもしれないところ。
ただし32飛合とすると、43金、51玉、52金打以下変長ですね。
……というのが今までの見解。各所でこのような解説が掲載されていたようですが。
実は32香合でも43金、41玉、32飛成、51玉、52龍迄の変長でした。
つまり「飛合されると変長」という解説は間違い。
なぜこのような勘違いが起きたかというと、初形で玉方33角が31銀である図も伝わっていて、なるほどこれなら飛合で変長です。
そこらへんがごちゃごちゃになってしまい、最初に解説した人が間違い、さらにその解説を引用したものが次々伝わってしまった、というのが利波さんの推測です。
教訓を言うならば、「古図式の解説の孫引きはやめましょう」とのことで。「ちゃんと自分の頭で考えてから引用しましょう」。

10番集、作意がまったく不明でぼろぼろに余詰んでいるものなど、利波さん自身も「目が腐ります」と言うくらいなので、さすがにそこらへんは省いてもいいように感じましたが、古図式研究の観点からはそれらも重要なのでしょうね。
中には「十」のあぶり出しもあり、めでたしめでたし。

懇親会はいつものお店で。山川さんといくらかお話しできました。
二次会以降は、若島さんも合流されましたが、ちょっと疲れてしまったので今回は遠慮しました。(前日まで自転車旅行していたので)

たま研は、30名以上もの詰キストが集まる、全国大会・解答選手権に続く詰将棋一大イベントです。
ぜひ皆さんご参加ください。

第10回たま研参加記 前編

お待たせしました。13日のたま研参加記です。
たま研は8月には講義、1月には新年会という名目で、毎年2回、町田において開かれています。
詰将棋のアカデミックな部分に触れられる数少ない会合なので、予定をやりくりしてなんとか参加できるようにしました。

今回の講師は東京富士大学教授の山川悟さん。スマホ詰パラでは世阿弥さんとして多数発表されています。
ブログ→ 不況になると口紅が売れる

僕が会場に到着したときには開始時間を数十分ほどすぎてましたので、本日の日程の連絡がちょうど終わって、講義に入るところでした。
では以下どうぞ。



詰将棋の歴史 在野棋士の果たした役割を中心に

山川と申します。

(幹事の利波偉さんから講義の依頼を受けて)最初はこういうメンバーの前で詰将棋の話をするのが場違いじゃないかと思いましてお断りしたんですが、「お断りできません」とのことで 笑。
(私が所属している)遊戯史学会の定例会が11/26に東京富士大学で開かれます。ご興味のある方は足をお運びください。
遊戯史学会では伝統的な遊びを中心に研究していますが、最近は「ポケモンGO」が話題で、今日も電車で一列の座席に座っている7人中3人がやってました。遊戯史学会としては対策委員会を作らなくてはいけないかと思うのですが 笑。

自己紹介させていただきますと、大学の教員となって8年。本来大学に来ると少しは自由な時間があるとのことだったので、「スマホ詰パラ」に投稿を始めたのが詰将棋界に戻るきっかけでした。
現在授業の傍ら、キャリア・学生支援センターで就職活動支援の仕事もしています。「就職に強い大学」というスローガンで西武線のラッピング広告が展開されているので、ややプレッシャーですが。
また、日テレの「鉄腕dash!!!」でTOKIOが生態系をつくるという企画がありますが、大学としてそれに協力しています。明日の8時からなのでご覧になってください。

本日ぜひ皆さんからサインをいただきたいと思って色紙をまわしています。
またスマホのアプリで「山川悟の詰将棋①~③」があり、チャレンジしていただけたらと。
私は研究家というわけでもないので、マニアックな質問には答えられないので、質疑応答の時間はぜひフリートークの場にしてください。
以下は、仮定・推論・想像が含む内容になります。

門脇芳雄さんによると詰将棋の歴史は以下のように進んできたとされています。
①草創期(江戸初期)
 ――初代大橋宗桂による幕府への献上図式のはじまり
②興盛期(江戸前期)
 ――家元たちによる難解作品の考案とルールの整備
③黄金期前夜(元禄~享保時代)
 ――二代宗印による趣向作開発と民間棋客の活躍
④頂点(「将棋図巧」「将棋無双」)
 ――伊藤宗看・看寿兄弟による「神局」の完成
⑤黄金期(享保~天明時代)
 ――宗看・看寿の影響による多数の作家の登場
⑥衰退期(幕末~明治大正時代)
 ――六代宗英による献上図式廃止、プロ棋士の指将棋重視
⑦復活期(昭和初期~現代)
 ――「詰将棋パラダイス」へのアマチュア作家の集結

今日は「草創期」と「黄金期前夜」の部分にフォーカスして、詰将棋はどのように変わったかということや、家元とアマチュアとの相互作用についてお話したいと思います。
利波さんには講義の後に、当時の作品を解説頂ける予定です。

まず草創期ですが、
もともと初代大橋宗桂は町人出身で、家康が京都に来たとき、地元の武士や町人・商人を集めて将棋大会を開催したときのホストとして諜報活動に協力していました。
「将棋所」という名称を使うと増川宏一先生に叱られますが(遊戯史学会の増川会長は将棋所<ウィキペディア>というものは存在しなかったという主張)、家康から一代限りの俸禄を貰い、それが将棋家のスタートとされています。
その後、将棋家が継続していくための最大の武器が献上図式でした。
山科言経(やましなときつね)という公家が、後陽成天皇が将棋好きだから納品しろと宗桂に命じ、それが端緒で「象戯造物」(1603)となりました。当時は公家と文化ジャンルの結びつきがあり、山科家=将棋のような形を作りたいと考えたらしいです。
これが結果的に、禁中(のちに将軍家)御用達遊戯の座を確立するエビデンス作りになりました。
これは推測ですが、当時は中将棋と小将棋が混在状態。そこで持駒使用の面白さを伝えようとしたのではないかとも思われます。また、囲碁と比べると下に見られていた将棋の地位向上にも寄与した。さらに詰将棋は、駒とともに献上するギフトの意味合いもありました。

初代宗桂の作品の多くは実戦形です。これらは自分の終盤での好プレイ集、つまりサッカーのエースストライカーがゴールシーンをDVDに撮って渡したようなものでした。宗桂は能楽の芸人家出身という話もきいているので、芸として将棋を捉えていたのかも。

なお、幕府が次の名人が決まったら必ず献上せよとしていたわけではなく、将棋家のほうで無理矢理伝統行事としてやっていたわけです。利波さんはこれを「将棋家からの送りつけ商法」と呼んでいますが、納品儀式は将棋家が幕府の幹部とコネクションを作る材料になったと思われます。
 

献上図式の果たした効能は以下の3点だと考えます。
① 献上策は将棋家継承の象徴として機能
跡継ぎが「技量未熟」という名目で禄高を半分にされることを防ぐ策となりました。高い技量の者が継承しますよという証拠になる。無論当時の禄高は50石ほどで、これは現代でいうと年間100~150万円くらいなのでほぼ暮らしていけません。ただ徳川家からの拝領地を活用した大家としての家賃収入があった。将棋家は、アパートをテナントとして貸して自分は5階に住むみたいな暮らしをしていたようです。
② 「戦う」競技ではなく、「創作」文化の礎を築く
指将棋は戦いに過ぎず、当時の庶民は賭け将棋。御城将棋も賭けがあり、闘鶏や相撲と同じような見方もありました。しかし詰将棋によって、作品を創るという文化を育んでいきました。元禄以降は神局と呼ばれる高度な作品が生まれたのは、ご存知のとおりです。
③ 詰将棋が庶民への普及や技術向上への教材に
現代でも使われる盤面の位置表記や「成」「打」「突」などの将棋用語は詰将棋から現れました。これによって棋譜が記録され、棋書刊行にもつながり、将棋普及への基盤ができたのです。詰将棋が絵馬として飾られて庶民の間で話題になったこともあったようです。

こうして詰将棋によって「創造する」「記録する」「学ぶ」「対話する」という要素が現れてきたわけです。献上図式が結果的に将棋界を発展させる妙手になったというのは、こうした理由からです。

なお、堀口弘治七段は「打歩詰は詰将棋のためのエクストラルール」という主張をされています。当初は駒余りの作品があり、最終手を規定するためという機能的な理由からです。

(同じような説を風みどりさんも提唱されています→「現代将棋」成立に関する一考察)

次に黄金期前夜です。二代伊藤宗印は大きく詰将棋を変えたといわれています。
もちろん伊藤宗看・看寿の父ですから彼らのインフラを作り出したと言えますが、創り方を大きく変えたのは、以下の3点だと考えます。
① 民間棋客の自由なアイディアの導入
当時出版が始まった、ある意味無責任だがユニークな民間棋客による詰将棋作品を取り入れました。かなり宗印の作品は基本的に理詰めで技巧的だが、技術を縦に堀り下げただけでなく、在野の作品を取り入れながら、芸の幅を横にも広げていこうとしました。
② プロダクション方式による集団創作
これは証明は難しいのですが、余詰検討担当、構想を練る者、収束担当など、創作作業を分業していたのではないかと。漫画のさいとう・たかをプロみたいなものです。このころから、複数の人による創作コミュニティによって創られていったのではないかと思われます。
③ 逆算技術の導入と確立
宗印が初というわけではありませんが、逆算が使われた作品が多いのも特徴です。この技術は、のちに看寿の煙詰を生み出す基盤となります。宗印が「近代詰将棋の祖」と呼ばれる所以です。

「趣向」については、その定義はなんとも言えないんですけど、五代宗桂から二代宗印の時代に趣向的な作品、広い意味での遊び心に溢れる作品が出てきました。宗印自身は実戦型ではなく、中段玉の作品が圧倒的に多い。北村憲一さんによると、初形の桂香配置は宗桂45%→宗印は0%とのこと。

これは、当時のアマチュア作品の良い面を取り入れた結果ではないかということです。これが今日の問題提起です。宗印自身はそこまで趣向は作っていないが、「将棋勇略」ですと以下の様なものがあります。
・「双方不成」(76番)
・「左右対称曲詰」(91番)
・「銀歩趣向」(35番)
・「遠打」(27番)
「将棋精妙」はほんとに宗印が作ったかという疑問はあるものの、不成100番はそれ自体が趣向かもしれません。逃れ図式なんていう面白いものも作っています。
・「龍追廻し」(96番)
・「逃れ図式」(99番、100番など)
このうち勇略35番27番は「洗濯作物集」(アマチュアのアンソロジー)に添田宗太夫作として紹介されているのは有名な話です。門弟である彼こそが、宗印のゴースト作家だったといわれています。
いずれにせよ遊戯性・テーマ性をこの時代から家元家も積極的に取り入れていき、宗看・看寿につなげていったともいえるでしょう。

ところで実は先日、その伊藤家の墓参りに行ってきました。場所は押上から10分、本法寺というお寺にあります。けっこうボロボロもいいところで、お墓は放置状態です。東京にある家元のお墓は伊藤家だけですし、詰将棋をやる者にとっては伊藤さんたちにはお世話になっているので、毎年たま研をやる前に足を運んでみては 笑。ちなみに墓石に将棋の駒があります。
(ブログ記事→二代伊藤宗印の墓参りとスカイツリー)

民間の詰将棋作品集は、元禄→宝永→享保の時代に突然現れ、これだけのものが伝わっております(リストで12編)。初期の「近代象戯記大全」には盤面の四隅に詰物が配置された作など10作が収録、また「素庵作物」は当時のアマチュアのアンソロジーです。

もちろんそれ以前にも作られていたとは思いますが、なんでこの時代に民間の詰将棋集が突如出版されたのかというと、ひとつは製版技術の向上で、20年間で書籍そのものの発行部数が4倍になったという記録もあります。また重版累版禁止令のために(過去の焼き直しではなく)新しい作品へのニーズもあったかもしれません。とにかくこの時代(17世紀末~18世紀中頃)にアマチュアの作品が流布し始めました。

伊野辺看斎(いのべかんさい)
「象戯手段草」(てだてぐさ)とは、旗本の土屋好直の名前で出した本です。民間人が勝手に本を出すことはできなかったので武士の名前で出しました(1724年)が、著者の実名を出さないといけないという理由で発禁になります。しかし、清涼詰、飛先飛歩、四銀詰、銀鋸、無仕掛、龍の追廻し、四桂詰、左右対称など、現代の詰パラにも入選するくらいの水準で、最初にスポンサーがついた詰将棋作家です。

添田宗太夫
湯川博士さんの「伊藤宗印伝」という本を読むと、宗印の養子として伊藤家を次ぐという意志をもっていたとされています。しかし伊藤家に男子(印達)ができたのでやけ酒に走るというシーンも描かれています。
「象戯秘曲集」で全局が曲詰なのはわざとそうしたのかも知れません。つまり自分自身の作風を示さず、あえて曲詰とすることで宗印の代作者であることを表明しなかった?ということです。

久留島喜内
鳴海風さんに「美しき魔法陣」という本がありますが、その主人公です。天才数学者・大酒飲み・権力にへつらわない魅力的な人物で、時代劇の主人公としてもいいくらい。
作風にはテーマをミニマムな仕掛けで描くという、数学者としての美学が見られます。恐らく死後ですが、2つの作品集が出ています(「将棋妙案」「橘仙貼璧」←「かべ」ではなく完璧の璧)。

无住僊良(むじゅうせんりょう)/宥鏡(ゆうきょう) 同一人物?
「洗濯作物集」に関与した洗濯周詠(せんたくしゅうえい)も同一人物かといわれています。彼は、民間に伝わっていた詰将棋をアンソロジーしたという意味で多大な功績があります。収録した作品は玉石混交で不完全作・駄作も多いのですが、歴史的な意義があります。

これ以降は 宗印・宗看・看寿の次世代となるが、あと二人。

桑原君仲
五段を与えられたが固辞したという謙虚な人格者ですが、賭け将棋で全国行脚した側面もあります。江戸時代のアマチュア棋客には賭け将棋という手段があったが、詰将棋を使って指導料をとるとか、そんな生計の立て方もあったのかも知れません。それはどなたかにご研究いただきたいですが。
この方が詰将棋の名手であったため、六代宗英は「詰将棋なんて君仲でもできるではないか」ということで献上図式を廃止しました。相当君仲を嫌っていたか、あるいは家元家がもう幕府の力を借りなくてもいいくらい安定したか、でしょうか?

十代将軍 徳川家治
徳川将軍の中ではいちばん知名度が低いが、詰将棋作家の中では知名度が最も高い人。田沼時代の将軍で、政治には手を付けさせてもらえず、絵画と将棋に熱中しました。
九代宗桂の「将棋舞玉」に似た手筋が「攷格」にもあったりと、当時の家本家の協力で「象棊攷格」をまとめたとされています。完成後に大層なギャラをもらったという話もあります。

一般の人がスポーツ新聞で見るような詰将棋とは違って 詰将棋には構想やテーマという趣向が存在し、それがいろんな発想を生み出す源泉となっていきます。その発祥のいくつかはアマチュアにあり、家元がうまく取り入れて宗看・看寿につなげていきます。
その事例をいくつか紹介します。

不利先打、銀鋸、馬鋸、長手数、遠打、裸玉、煙詰、引き違い、四桂追戻詰
(この具体例の部分は長くなってしまうので別記事に回します。フラ盤で並べられるようにしておきます)

家元はあまり曲詰を作りませんでしたが、曲詰の引き違いなんかは 民間発ではあるが自分が作ればこんなもんじゃいと力量を示したものかと思われます。
なお曲詰は、詰め上がりが文字になりインパクトがあるのと、「これが正解」であることがわかりやすく、当時の普及に大いに役立ったのではないかと思っています。

ところで宥鏡の「勇士鑑」(ゆうしかがみ)を1729年、発禁に追い込んだのが三代宗看です。つまりこれは、当時の家元が民間の作品を意識していた証拠です。洗濯周詠と宥鏡が同一人物であるとすれば、家元は彼には恨みがあったはずです(洗濯作物集に宗印作が添田作として登場していた件)。
ただ、どうもけしからんとアマチュアのやっていることを家元が抑圧するという姿勢は、普及に関しては足枷になります。素人が自由にやっていることに対して、プロが口出ししてはいけない、ましてや邪魔をするなどはもってのほかというのが私の説です。自分たちならもっとうまく作れると示していくのが本来の彼らの仕事なのではないかなという気がしています。

なお「プロダクション方式」については、何ら証拠も残っていないので証明はできませんが、作品からの推定となります。
宗印の「勇略」100作のうち、43作は同じようなパターンでできています。
▼導入部
中段での空中戦、大駒乱舞、豪快、パワー、見栄え、演出、実験
▼収束部
四隅での地上戦、小駒の技、華麗、テクニック、味わい、計算、仕立て
これらは別のプロセス・別人・別のタイミングで作ったかという気がしないでもない。
序盤の数ラウンドでダウンを奪ってそのあと15で勝つというスタイルですが、クラシックの交響曲のような作為的な組み立ても見えてきます。

以上を相関図にすると以下のとおりになります。

●初代大橋宗桂(献上図式開始)
 ●二代大橋宗古
  ●初代伊藤宗看   ↓↓
   ●五代大橋宗桂  ↓↓創作文化の礎

↓↓↓民間作品集の影響↓↓↓
―――――――――宗印中心の創作コミュニティ
●二代伊藤宗印(近代詰将棋の祖)

添田宗太夫(代作者?)・伊野辺看斎(影響?)

 ●三代伊藤宗看「将棋無双」
 ●伊藤看寿「将棋図巧」
――――――――――頂点
   ↑↓
久留島喜内(影響?)
桑原君仲 ←不仲?→ ●六代大橋宗英(献上図式廃止)


献上図式廃止に伴って詰将棋は冬の時代を迎えたという話もありますが、明治期にマスメディアの確立とともに復活します。「有喜世新聞」が「象戯力草」41番を掲載したのを皮切りに(ただ編集者の知識不足で表記ミスで不詰でしたが)、「サンデー毎日」に木見金治郎作、それ対抗して「週刊朝日」が阪田三吉の詰将棋を載せるなど、大正時代は詰将棋のひとつの復興期となりました。

それ以降の話は、皆さんのほうがよくご存知ですね。

宗桂の中には芸能としての詰将棋という意識が強かった。宗印は技術的に深めようとしましたが、同時期に民間の方からもさまざまな作品が登場します。そこでそれらの面白み、エキスを取り入れて趣向作の基盤を作り出し、それは現代の詰将棋にも引き継がれています。詰将棋は家元家だけが作ってきたわけではなくて、無名有名な民間人が自由奔放に創作した作品群により、大きな転換を迎えたのです。

私自身は詰将棋研究の人間ではなくて むしろマーケティング専門なので、それらを踏まえたうえで、最後に将棋・詰将棋の普及に対する方向性をお話したいと思います。
将棋連盟はプロ棋士集団であり、質の高い棋譜を残すことがアマチュアへの模範になるという立場です。そもそも「普及」という概念がそうですけど、トップダウンで裾野を拡大することが大事で、経済フローとしては最終的に棋士にリターンされるという視点があります。しかし今やコンピューターに負けるわけですから、そのスタンスも怪しくなっている。そこで「プレイヤー」という定義をしなおさなければいけません。専門棋士=プレイヤーでいいのか、ということです。むしろ真のプレイヤーはアマチュアであり、自分たちがプレイするのではなく、アマのプレイを後押しする・認める・広める…というエンパワーメント策こそが、活性化につながると考えています。

マウンテンバイク・パソコン・料理・旅行などの領域では、ユーザーによって自発的に運営されているコミュニティがあって、そこから生まれてくる商品アイデアなどが大きな意味を持ってきています。「クラブツーリズム」などでは、旅行のベテランたちが自らユニークなツアー企画をつくり、新しい参加者を集めてくるという構造になっていたりします。
今やユーザーコミュニティから商品開発の新しいイノベーションが生まれてくるというのは常識であり、コミケやボードゲームなんかもそうした形になりつつあります。
もっと言うとユーザー側がプレイヤーとなって、それを周辺の素人に勝手に広めることで拡大していく。まさに「たま研」でやっていることではないか、と思います。
ただ、パソコンであればメーカーはユーザーコミュニティに口出ししてはいけないし、そしてお金を出してもいけない(スポンサーになってしまうから)。特にアマを商売敵としてとらえるのがいちばんまずいわけです。なぜなら、主体的なアマを攻撃すれば、ライトユーザーたちが付和雷同して企業のほうについてしまい、それこそ裾野拡大にならないからです。
では何をするかといえば、場を提供する、求められれば助言をする、活動を紹介するといった、つまりは陰に隠れた支援をするべきなんです。自らが主体となってあれこれと働きかけるよりも、アマチュアプレイヤーを中心とするコミュニティを支えるほうがうまくいくということです。
このように、在野でも主体性があり、その分野を生き甲斐としている人達を支援していくというのが現在マーケティングにおける考え方のひとつです。これからの日本将棋連盟は、アマの中間層による自発的活動をもっと支援していかなければいけないと思います。その構図が詰将棋の歴史を見ると鮮明に見えてくるわけです。

まとめ
・将棋を「知的文化」に変えたのは詰将棋
・現代の詰将棋の礎は宗印がつくったが、当時の民間作家の影響が大きかった
・意欲の高いアマチュアこそ、真のプレイヤー



お疲れ様でした。
本当は僕のメモをもとにそのまま掲載するといういつもの方法で記事にしていたのですが、なんと山川さんから訂正原稿をいただき、より理解しやすい文面に修正いたしました。
お手数かけまして申し訳ありませんでしたということと、この場を借りて感謝も。

とりあえず今回の記事は長くなってしまうのでここまでで、また後日、次の記事をアップします。(たま研その後のことと、民間作品を家元が取り入れた具体例の部分)

詰パラ 入選111回 デパート

詰将棋パラダイス2016年5月号
デパート 第2番

入選111回
東京都 鈴川優希



誤0 無2
正37

原田◯実―絵に描いたようなきれいな収束につながるのが信じられない!

福◯徹彦―清算手順はあるものの、銀合など好手順もあるし、軽くて楽しい。



序の付け方に苦労して、尻金からの清算となったが、ストーリー的には悪くないと思っている。
ikironさんは(合駒を取る以外の)駒取りが大嫌いということで、改作された。



4手目銀合の割り切り方がなるほどとなるし、角合のときに同飛と取って詰まないのも意外。こういう方法があったかと唸った。

ところで、この図だとちょっと序の入り方がなんだか好みではないので、逆算を加えてみた。



……が、どうもうまくいかず。初手84銀の入りならまあまとまってはいるだろうと。少しは起承転結に近づきました。駒数・駒取りともに増えてしまって本末転倒な気もするのですが。
最近、全体の物語性ばかりを気にする傾向にあります。

詰パラ 入選110回 高等学校

詰将棋パラダイス2016年5月号
高等学校 第2番

入選110回
東京都 鈴川優希



誤2 無3
A39 B23 C1
平均2.60

矢◯修―初手の93王は違和感があり最後迄見えなかった。変化の香合ですべての謎が解けました。

大川究◯―いつもながら、大駒の捨てる手順の小気味の良いこと。



M原時代の高校(たぶん)に投稿したけれども行方不明となっていた作を再投稿したところあっさり採用。
逆算で玉ソッポが入ればまあ作品にはなっているかなあと。
45と、48歩が取り残されるのが不満ではありますが。

詰パラ2016年8月号雑感

全国大会の詰パラ用レポートも書き終わり、これからしばらく旅に出るので例によってブログを自動更新するようにしておきます。たま研までには戻ってきます。

さて、早々にも7月28日に届いていた詰パラ8月号の雑感を。

中学校……メール解答が増えないのは、全コーナーでメール解答を受け付けているわけではないからでしょうね。便利さという点ではメールのほうがよいはずで、なんなら詰パラHPに各コーナーごとの解答フォームを設けるなんてことをしてみればいいかもしれません。
僕が採点をするとき、字の判読が難しい方もたまに……。
まあしかし、解答者の字や用紙のスタイルを楽しむのもまた一興でしょうが。
メール投稿については、作者が変化・紛れを細かく記入していれば、担当者も安心して採れるのでしょうね。はじめから「完全作の保証ができない場合はメール投稿では採用しません。書面でお願いします」と宣言しておくのもアリかと。

新人コンクール……これは! 看寿賞作家から英才教育を受けているという……!

アナザーバージョン……あとで、タイムアタックしてみようかと。

名局ライブラリー……「どの部分がセルフヒピン手筋か筆者はわからない」……えぇ……。そういえば石本さんこの時期は旧仮名遣いでしたね。

ちえのわ雑文集……お人柄のにじむ文章になっております。

将棋パズル……解答が載ってから問題を考えるスタイル。いずれ解きます。

小学校解答……小25について、ちえのわで掘り下げる予定。

高校解答……高23がタイプど真ん中です。この作者のこういう作品をまた見たいです。

短大解答……短21、玉方桂が成れる段だからこそ実現する収束と、序の入り方から四金捨のテーマが浮かんでくるのが素晴らしい。短22、この収束になるのがとてもよいです。三輪さんならもう1回くらい組み換えを期待しちゃいますが。

大学解答……大13、後半の角の交換に前半の銀の捌きを組み合わせたセンスがよい。伏線も入るとは。大15、相馬康幸を髣髴とさせる。作者にとっては褒め言葉かわかりませんが、そのつもりで言ってます。

デパート解答……5番は菅野さんの煙で簡単だと知ったので自力で解こうかなと。まだ作意手順見てません。

ざっと以上です。今月は小学校と短大に入選ですが、短大のはおすすめです。

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About
my cubeへようこそ。詰将棋のブログです。駒を並べてアートが表現できるって素敵なことじゃありませんか? 詰キストの方もビギナーの方も楽しんでいってください。

管理者:鈴川優希
月刊誌「詰将棋パラダイス」を活動拠点とする詰将棋作家。石川県のド田舎育ちですが、大学進学とともに東京へ。詰工房などの会合に顔を出したり、解答選手権などのイベントを運営したりしてます。詰将棋は小学生の時から作り始め、2009年5月に詰パラ初入選。2015年12月に最年少同人入り(入選100回達成)。半期賞受賞6回。2016年4月より詰パラ連載「ちえのわ雑文集」の世話役に就任。現在、第一作品集を執筆中。出版は今夏を予定していましたが果たして……。

第n回裏短編コンクール
2015年11月に開催した企画で、7手詰を募集して17作を出題しました。45名もの方に解答していただき感謝です。順位発表はニコ生で放送するという新しい試み。

第φ回裏短編コンクール
2016年、裏短コン2回目の開催。9手詰25作出題の大盛況でした。結果稿はいずれもブログ右袖のカテゴリーからどうぞ。

たのしく、うつくしく。
難解? 複雑? そんなものとは無縁な「易しいからこそ楽しい」作品を紹介していく連載です。不定期更新。

解付き出題
自作を解付きで出していた企画で、現在#120をもって休止中。在庫整理の意味合いが強いので質より量です。

今週の詰将棋・
詰将棋ウィークリー

今週の詰将棋は2009年7月からの2年間100題。詰将棋ウィークリーは1012年3月からの50週は幻想咲花さんとのコラボ、それ以降は鈴川単独の出題で2014年3月まで、#100をもって終了しました。解答して頂いた方に感謝します。
※81puzzler閉鎖につき詰将棋ウィークリーの記事にはリンク切れが多いです。

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