第10回たま研参加記 前編

お待たせしました。13日のたま研参加記です。
たま研は8月には講義、1月には新年会という名目で、毎年2回、町田において開かれています。
詰将棋のアカデミックな部分に触れられる数少ない会合なので、予定をやりくりしてなんとか参加できるようにしました。

今回の講師は東京富士大学教授の山川悟さん。スマホ詰パラでは世阿弥さんとして多数発表されています。
ブログ→ 不況になると口紅が売れる

僕が会場に到着したときには開始時間を数十分ほどすぎてましたので、本日の日程の連絡がちょうど終わって、講義に入るところでした。
では以下どうぞ。



詰将棋の歴史 在野棋士の果たした役割を中心に

山川と申します。

(幹事の利波偉さんから講義の依頼を受けて)最初はこういうメンバーの前で詰将棋の話をするのが場違いじゃないかと思いましてお断りしたんですが、「お断りできません」とのことで 笑。
(私が所属している)遊戯史学会の定例会が11/26に東京富士大学で開かれます。ご興味のある方は足をお運びください。
遊戯史学会では伝統的な遊びを中心に研究していますが、最近は「ポケモンGO」が話題で、今日も電車で一列の座席に座っている7人中3人がやってました。遊戯史学会としては対策委員会を作らなくてはいけないかと思うのですが 笑。

自己紹介させていただきますと、大学の教員となって8年。本来大学に来ると少しは自由な時間があるとのことだったので、「スマホ詰パラ」に投稿を始めたのが詰将棋界に戻るきっかけでした。
現在授業の傍ら、キャリア・学生支援センターで就職活動支援の仕事もしています。「就職に強い大学」というスローガンで西武線のラッピング広告が展開されているので、ややプレッシャーですが。
また、日テレの「鉄腕dash!!!」でTOKIOが生態系をつくるという企画がありますが、大学としてそれに協力しています。明日の8時からなのでご覧になってください。

本日ぜひ皆さんからサインをいただきたいと思って色紙をまわしています。
またスマホのアプリで「山川悟の詰将棋①~③」があり、チャレンジしていただけたらと。
私は研究家というわけでもないので、マニアックな質問には答えられないので、質疑応答の時間はぜひフリートークの場にしてください。
以下は、仮定・推論・想像が含む内容になります。

門脇芳雄さんによると詰将棋の歴史は以下のように進んできたとされています。
①草創期(江戸初期)
 ――初代大橋宗桂による幕府への献上図式のはじまり
②興盛期(江戸前期)
 ――家元たちによる難解作品の考案とルールの整備
③黄金期前夜(元禄~享保時代)
 ――二代宗印による趣向作開発と民間棋客の活躍
④頂点(「将棋図巧」「将棋無双」)
 ――伊藤宗看・看寿兄弟による「神局」の完成
⑤黄金期(享保~天明時代)
 ――宗看・看寿の影響による多数の作家の登場
⑥衰退期(幕末~明治大正時代)
 ――六代宗英による献上図式廃止、プロ棋士の指将棋重視
⑦復活期(昭和初期~現代)
 ――「詰将棋パラダイス」へのアマチュア作家の集結

今日は「草創期」と「黄金期前夜」の部分にフォーカスして、詰将棋はどのように変わったかということや、家元とアマチュアとの相互作用についてお話したいと思います。
利波さんには講義の後に、当時の作品を解説頂ける予定です。

まず草創期ですが、
もともと初代大橋宗桂は町人出身で、家康が京都に来たとき、地元の武士や町人・商人を集めて将棋大会を開催したときのホストとして諜報活動に協力していました。
「将棋所」という名称を使うと増川宏一先生に叱られますが(遊戯史学会の増川会長は将棋所<ウィキペディア>というものは存在しなかったという主張)、家康から一代限りの俸禄を貰い、それが将棋家のスタートとされています。
その後、将棋家が継続していくための最大の武器が献上図式でした。
山科言経(やましなときつね)という公家が、後陽成天皇が将棋好きだから納品しろと宗桂に命じ、それが端緒で「象戯造物」(1603)となりました。当時は公家と文化ジャンルの結びつきがあり、山科家=将棋のような形を作りたいと考えたらしいです。
これが結果的に、禁中(のちに将軍家)御用達遊戯の座を確立するエビデンス作りになりました。
これは推測ですが、当時は中将棋と小将棋が混在状態。そこで持駒使用の面白さを伝えようとしたのではないかとも思われます。また、囲碁と比べると下に見られていた将棋の地位向上にも寄与した。さらに詰将棋は、駒とともに献上するギフトの意味合いもありました。

初代宗桂の作品の多くは実戦形です。これらは自分の終盤での好プレイ集、つまりサッカーのエースストライカーがゴールシーンをDVDに撮って渡したようなものでした。宗桂は能楽の芸人家出身という話もきいているので、芸として将棋を捉えていたのかも。

なお、幕府が次の名人が決まったら必ず献上せよとしていたわけではなく、将棋家のほうで無理矢理伝統行事としてやっていたわけです。利波さんはこれを「将棋家からの送りつけ商法」と呼んでいますが、納品儀式は将棋家が幕府の幹部とコネクションを作る材料になったと思われます。
 

献上図式の果たした効能は以下の3点だと考えます。
① 献上策は将棋家継承の象徴として機能
跡継ぎが「技量未熟」という名目で禄高を半分にされることを防ぐ策となりました。高い技量の者が継承しますよという証拠になる。無論当時の禄高は50石ほどで、これは現代でいうと年間100~150万円くらいなのでほぼ暮らしていけません。ただ徳川家からの拝領地を活用した大家としての家賃収入があった。将棋家は、アパートをテナントとして貸して自分は5階に住むみたいな暮らしをしていたようです。
② 「戦う」競技ではなく、「創作」文化の礎を築く
指将棋は戦いに過ぎず、当時の庶民は賭け将棋。御城将棋も賭けがあり、闘鶏や相撲と同じような見方もありました。しかし詰将棋によって、作品を創るという文化を育んでいきました。元禄以降は神局と呼ばれる高度な作品が生まれたのは、ご存知のとおりです。
③ 詰将棋が庶民への普及や技術向上への教材に
現代でも使われる盤面の位置表記や「成」「打」「突」などの将棋用語は詰将棋から現れました。これによって棋譜が記録され、棋書刊行にもつながり、将棋普及への基盤ができたのです。詰将棋が絵馬として飾られて庶民の間で話題になったこともあったようです。

こうして詰将棋によって「創造する」「記録する」「学ぶ」「対話する」という要素が現れてきたわけです。献上図式が結果的に将棋界を発展させる妙手になったというのは、こうした理由からです。

なお、堀口弘治七段は「打歩詰は詰将棋のためのエクストラルール」という主張をされています。当初は駒余りの作品があり、最終手を規定するためという機能的な理由からです。

(同じような説を風みどりさんも提唱されています→「現代将棋」成立に関する一考察)

次に黄金期前夜です。二代伊藤宗印は大きく詰将棋を変えたといわれています。
もちろん伊藤宗看・看寿の父ですから彼らのインフラを作り出したと言えますが、創り方を大きく変えたのは、以下の3点だと考えます。
① 民間棋客の自由なアイディアの導入
当時出版が始まった、ある意味無責任だがユニークな民間棋客による詰将棋作品を取り入れました。かなり宗印の作品は基本的に理詰めで技巧的だが、技術を縦に堀り下げただけでなく、在野の作品を取り入れながら、芸の幅を横にも広げていこうとしました。
② プロダクション方式による集団創作
これは証明は難しいのですが、余詰検討担当、構想を練る者、収束担当など、創作作業を分業していたのではないかと。漫画のさいとう・たかをプロみたいなものです。このころから、複数の人による創作コミュニティによって創られていったのではないかと思われます。
③ 逆算技術の導入と確立
宗印が初というわけではありませんが、逆算が使われた作品が多いのも特徴です。この技術は、のちに看寿の煙詰を生み出す基盤となります。宗印が「近代詰将棋の祖」と呼ばれる所以です。

「趣向」については、その定義はなんとも言えないんですけど、五代宗桂から二代宗印の時代に趣向的な作品、広い意味での遊び心に溢れる作品が出てきました。宗印自身は実戦型ではなく、中段玉の作品が圧倒的に多い。北村憲一さんによると、初形の桂香配置は宗桂45%→宗印は0%とのこと。

これは、当時のアマチュア作品の良い面を取り入れた結果ではないかということです。これが今日の問題提起です。宗印自身はそこまで趣向は作っていないが、「将棋勇略」ですと以下の様なものがあります。
・「双方不成」(76番)
・「左右対称曲詰」(91番)
・「銀歩趣向」(35番)
・「遠打」(27番)
「将棋精妙」はほんとに宗印が作ったかという疑問はあるものの、不成100番はそれ自体が趣向かもしれません。逃れ図式なんていう面白いものも作っています。
・「龍追廻し」(96番)
・「逃れ図式」(99番、100番など)
このうち勇略35番27番は「洗濯作物集」(アマチュアのアンソロジー)に添田宗太夫作として紹介されているのは有名な話です。門弟である彼こそが、宗印のゴースト作家だったといわれています。
いずれにせよ遊戯性・テーマ性をこの時代から家元家も積極的に取り入れていき、宗看・看寿につなげていったともいえるでしょう。

ところで実は先日、その伊藤家の墓参りに行ってきました。場所は押上から10分、本法寺というお寺にあります。けっこうボロボロもいいところで、お墓は放置状態です。東京にある家元のお墓は伊藤家だけですし、詰将棋をやる者にとっては伊藤さんたちにはお世話になっているので、毎年たま研をやる前に足を運んでみては 笑。ちなみに墓石に将棋の駒があります。
(ブログ記事→二代伊藤宗印の墓参りとスカイツリー)

民間の詰将棋作品集は、元禄→宝永→享保の時代に突然現れ、これだけのものが伝わっております(リストで12編)。初期の「近代象戯記大全」には盤面の四隅に詰物が配置された作など10作が収録、また「素庵作物」は当時のアマチュアのアンソロジーです。

もちろんそれ以前にも作られていたとは思いますが、なんでこの時代に民間の詰将棋集が突如出版されたのかというと、ひとつは製版技術の向上で、20年間で書籍そのものの発行部数が4倍になったという記録もあります。また重版累版禁止令のために(過去の焼き直しではなく)新しい作品へのニーズもあったかもしれません。とにかくこの時代(17世紀末~18世紀中頃)にアマチュアの作品が流布し始めました。

伊野辺看斎(いのべかんさい)
「象戯手段草」(てだてぐさ)とは、旗本の土屋好直の名前で出した本です。民間人が勝手に本を出すことはできなかったので武士の名前で出しました(1724年)が、著者の実名を出さないといけないという理由で発禁になります。しかし、清涼詰、飛先飛歩、四銀詰、銀鋸、無仕掛、龍の追廻し、四桂詰、左右対称など、現代の詰パラにも入選するくらいの水準で、最初にスポンサーがついた詰将棋作家です。

添田宗太夫
湯川博士さんの「伊藤宗印伝」という本を読むと、宗印の養子として伊藤家を次ぐという意志をもっていたとされています。しかし伊藤家に男子(印達)ができたのでやけ酒に走るというシーンも描かれています。
「象戯秘曲集」で全局が曲詰なのはわざとそうしたのかも知れません。つまり自分自身の作風を示さず、あえて曲詰とすることで宗印の代作者であることを表明しなかった?ということです。

久留島喜内
鳴海風さんに「美しき魔法陣」という本がありますが、その主人公です。天才数学者・大酒飲み・権力にへつらわない魅力的な人物で、時代劇の主人公としてもいいくらい。
作風にはテーマをミニマムな仕掛けで描くという、数学者としての美学が見られます。恐らく死後ですが、2つの作品集が出ています(「将棋妙案」「橘仙貼璧」←「かべ」ではなく完璧の璧)。

无住僊良(むじゅうせんりょう)/宥鏡(ゆうきょう) 同一人物?
「洗濯作物集」に関与した洗濯周詠(せんたくしゅうえい)も同一人物かといわれています。彼は、民間に伝わっていた詰将棋をアンソロジーしたという意味で多大な功績があります。収録した作品は玉石混交で不完全作・駄作も多いのですが、歴史的な意義があります。

これ以降は 宗印・宗看・看寿の次世代となるが、あと二人。

桑原君仲
五段を与えられたが固辞したという謙虚な人格者ですが、賭け将棋で全国行脚した側面もあります。江戸時代のアマチュア棋客には賭け将棋という手段があったが、詰将棋を使って指導料をとるとか、そんな生計の立て方もあったのかも知れません。それはどなたかにご研究いただきたいですが。
この方が詰将棋の名手であったため、六代宗英は「詰将棋なんて君仲でもできるではないか」ということで献上図式を廃止しました。相当君仲を嫌っていたか、あるいは家元家がもう幕府の力を借りなくてもいいくらい安定したか、でしょうか?

十代将軍 徳川家治
徳川将軍の中ではいちばん知名度が低いが、詰将棋作家の中では知名度が最も高い人。田沼時代の将軍で、政治には手を付けさせてもらえず、絵画と将棋に熱中しました。
九代宗桂の「将棋舞玉」に似た手筋が「攷格」にもあったりと、当時の家本家の協力で「象棊攷格」をまとめたとされています。完成後に大層なギャラをもらったという話もあります。

一般の人がスポーツ新聞で見るような詰将棋とは違って 詰将棋には構想やテーマという趣向が存在し、それがいろんな発想を生み出す源泉となっていきます。その発祥のいくつかはアマチュアにあり、家元がうまく取り入れて宗看・看寿につなげていきます。
その事例をいくつか紹介します。

不利先打、銀鋸、馬鋸、長手数、遠打、裸玉、煙詰、引き違い、四桂追戻詰
(この具体例の部分は長くなってしまうので別記事に回します。フラ盤で並べられるようにしておきます)

家元はあまり曲詰を作りませんでしたが、曲詰の引き違いなんかは 民間発ではあるが自分が作ればこんなもんじゃいと力量を示したものかと思われます。
なお曲詰は、詰め上がりが文字になりインパクトがあるのと、「これが正解」であることがわかりやすく、当時の普及に大いに役立ったのではないかと思っています。

ところで宥鏡の「勇士鑑」(ゆうしかがみ)を1729年、発禁に追い込んだのが三代宗看です。つまりこれは、当時の家元が民間の作品を意識していた証拠です。洗濯周詠と宥鏡が同一人物であるとすれば、家元は彼には恨みがあったはずです(洗濯作物集に宗印作が添田作として登場していた件)。
ただ、どうもけしからんとアマチュアのやっていることを家元が抑圧するという姿勢は、普及に関しては足枷になります。素人が自由にやっていることに対して、プロが口出ししてはいけない、ましてや邪魔をするなどはもってのほかというのが私の説です。自分たちならもっとうまく作れると示していくのが本来の彼らの仕事なのではないかなという気がしています。

なお「プロダクション方式」については、何ら証拠も残っていないので証明はできませんが、作品からの推定となります。
宗印の「勇略」100作のうち、43作は同じようなパターンでできています。
▼導入部
中段での空中戦、大駒乱舞、豪快、パワー、見栄え、演出、実験
▼収束部
四隅での地上戦、小駒の技、華麗、テクニック、味わい、計算、仕立て
これらは別のプロセス・別人・別のタイミングで作ったかという気がしないでもない。
序盤の数ラウンドでダウンを奪ってそのあと15で勝つというスタイルですが、クラシックの交響曲のような作為的な組み立ても見えてきます。

以上を相関図にすると以下のとおりになります。

●初代大橋宗桂(献上図式開始)
 ●二代大橋宗古
  ●初代伊藤宗看   ↓↓
   ●五代大橋宗桂  ↓↓創作文化の礎

↓↓↓民間作品集の影響↓↓↓
―――――――――宗印中心の創作コミュニティ
●二代伊藤宗印(近代詰将棋の祖)

添田宗太夫(代作者?)・伊野辺看斎(影響?)

 ●三代伊藤宗看「将棋無双」
 ●伊藤看寿「将棋図巧」
――――――――――頂点
   ↑↓
久留島喜内(影響?)
桑原君仲 ←不仲?→ ●六代大橋宗英(献上図式廃止)


献上図式廃止に伴って詰将棋は冬の時代を迎えたという話もありますが、明治期にマスメディアの確立とともに復活します。「有喜世新聞」が「象戯力草」41番を掲載したのを皮切りに(ただ編集者の知識不足で表記ミスで不詰でしたが)、「サンデー毎日」に木見金治郎作、それ対抗して「週刊朝日」が阪田三吉の詰将棋を載せるなど、大正時代は詰将棋のひとつの復興期となりました。

それ以降の話は、皆さんのほうがよくご存知ですね。

宗桂の中には芸能としての詰将棋という意識が強かった。宗印は技術的に深めようとしましたが、同時期に民間の方からもさまざまな作品が登場します。そこでそれらの面白み、エキスを取り入れて趣向作の基盤を作り出し、それは現代の詰将棋にも引き継がれています。詰将棋は家元家だけが作ってきたわけではなくて、無名有名な民間人が自由奔放に創作した作品群により、大きな転換を迎えたのです。

私自身は詰将棋研究の人間ではなくて むしろマーケティング専門なので、それらを踏まえたうえで、最後に将棋・詰将棋の普及に対する方向性をお話したいと思います。
将棋連盟はプロ棋士集団であり、質の高い棋譜を残すことがアマチュアへの模範になるという立場です。そもそも「普及」という概念がそうですけど、トップダウンで裾野を拡大することが大事で、経済フローとしては最終的に棋士にリターンされるという視点があります。しかし今やコンピューターに負けるわけですから、そのスタンスも怪しくなっている。そこで「プレイヤー」という定義をしなおさなければいけません。専門棋士=プレイヤーでいいのか、ということです。むしろ真のプレイヤーはアマチュアであり、自分たちがプレイするのではなく、アマのプレイを後押しする・認める・広める…というエンパワーメント策こそが、活性化につながると考えています。

マウンテンバイク・パソコン・料理・旅行などの領域では、ユーザーによって自発的に運営されているコミュニティがあって、そこから生まれてくる商品アイデアなどが大きな意味を持ってきています。「クラブツーリズム」などでは、旅行のベテランたちが自らユニークなツアー企画をつくり、新しい参加者を集めてくるという構造になっていたりします。
今やユーザーコミュニティから商品開発の新しいイノベーションが生まれてくるというのは常識であり、コミケやボードゲームなんかもそうした形になりつつあります。
もっと言うとユーザー側がプレイヤーとなって、それを周辺の素人に勝手に広めることで拡大していく。まさに「たま研」でやっていることではないか、と思います。
ただ、パソコンであればメーカーはユーザーコミュニティに口出ししてはいけないし、そしてお金を出してもいけない(スポンサーになってしまうから)。特にアマを商売敵としてとらえるのがいちばんまずいわけです。なぜなら、主体的なアマを攻撃すれば、ライトユーザーたちが付和雷同して企業のほうについてしまい、それこそ裾野拡大にならないからです。
では何をするかといえば、場を提供する、求められれば助言をする、活動を紹介するといった、つまりは陰に隠れた支援をするべきなんです。自らが主体となってあれこれと働きかけるよりも、アマチュアプレイヤーを中心とするコミュニティを支えるほうがうまくいくということです。
このように、在野でも主体性があり、その分野を生き甲斐としている人達を支援していくというのが現在マーケティングにおける考え方のひとつです。これからの日本将棋連盟は、アマの中間層による自発的活動をもっと支援していかなければいけないと思います。その構図が詰将棋の歴史を見ると鮮明に見えてくるわけです。

まとめ
・将棋を「知的文化」に変えたのは詰将棋
・現代の詰将棋の礎は宗印がつくったが、当時の民間作家の影響が大きかった
・意欲の高いアマチュアこそ、真のプレイヤー



お疲れ様でした。
本当は僕のメモをもとにそのまま掲載するといういつもの方法で記事にしていたのですが、なんと山川さんから訂正原稿をいただき、より理解しやすい文面に修正いたしました。
お手数かけまして申し訳ありませんでしたということと、この場を借りて感謝も。

とりあえず今回の記事は長くなってしまうのでここまでで、また後日、次の記事をアップします。(たま研その後のことと、民間作品を家元が取り入れた具体例の部分)

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

カレンダー(月別)
03 ≪│2017/04│≫ 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
FC2カウンター
About
my cubeへようこそ。詰将棋のブログです。駒を並べてアートが表現できるって素敵なことじゃありませんか? 詰キストの方もビギナーの方も楽しんでいってください。

管理者:鈴川優希
月刊誌「詰将棋パラダイス」を活動拠点とする詰将棋作家。石川県のド田舎育ちですが、進学とともに東京へ。現在、20歳学生。詰工房などの会合へしばしば顔を出します。詰将棋は小学生の時から作り始め、2009年5月に詰パラ初入選。2015年12月に最年少同人入り(入選100回達成)。半期賞受賞6回。2016年4月より詰パラ連載「ちえのわ雑文集」の世話役に就任。現在、第一作品集を執筆中。出版は今夏を予定していましたが果たして……。

第n回裏短編コンクール
2015年11月に開催した企画で、7手詰を募集して17作を出題しました。45名もの方に解答していただき感謝です。順位発表はニコ生で放送するという新しい試み。

第φ回裏短編コンクール
2016年、裏短コン2回目の開催。9手詰25作出題の大盛況でした。結果稿はいずれもブログカテゴリーからどうぞ。

たのしく、うつくしく。
難解? 複雑? そんなものとは無縁な「易しいからこそ楽しい」作品を紹介していく連載です。不定期更新。

解付き出題
自作を解付きで出していた企画で、現在#120をもって休止中。在庫整理の意味合いが強いので質より量かも?

今週の詰将棋・
詰将棋ウィークリー

今週の詰将棋は2009年7月からの2年間100題。詰将棋ウィークリーは1012年3月からの50週は幻想咲花さんとのコラボ、それ以降は鈴川単独の出題で2014年3月まで、#100をもって終了しました。解答して頂いた方に感謝します。

このブログはリンクフリーです。Sine 2009.6.
メールアドレス
makugaeru●yahoo.co.jp
●を@に替えてください。
全記事数表示
全タイトルを表示
最新記事
最新コメント
カテゴリ
検索フォーム
リンク
詰将棋あるあるbot