それでも古時計は動いている

前記事、田島秀男作401手の続きといいますか、こちらが本編といいますか。

田島秀男氏はこれまで数々の名作を残していますが、その中に「古時計」があります。
1989年6月に発表された長編作。しかし原型復帰型無駄合が絡んだ「変長」のレッテルを貼られ不完全扱いとなってしまいました。
詰キストならたとえ長編に興味はなくても知っておかなければいけない作品。しかし、ネット上をいくら探しても、解説どころか図面さえも載っていない。
これが、このブログで古時計を取り上げたいと思った理由です。

古時計の発表から10年余り経過した詰パラ2001年3月号。とある論文が誌面に掲載されました。
『古時計は回りはじめた』安江久男
これは、それまで不完全とされていた古時計が本当に不完全作であるのかを考察したものでした。そして掲載されたその翌月から、読者サロンにてたくさんの意見が続き、古時計の奥底に迫っていきます。
そこでこの記事では、この論文を追って、古時計の作品とそれに付随する議論を紹介したいと思います。
原型復帰型無駄合そのものに関する議論をこのブログで行うのとは趣旨が違うことをご理解ください。

論文や意見そのものをまるごと掲載するのは著作権的に怪しいので、序文および結論部分だけの紹介と、そして僕の注釈も入れていきます。



大きなのっぽの古時計
おじいさんの時計
百年いつも動いていた
御自慢の時計さ
・・・・
今はもう動かない
その時計

「古時計」と言って誰もが思い浮かべる名曲ですが、詰キストにとって忘れられないもうひとつの名局が、詰パラ四百号記念イベント「詰将棋博覧会」に寄せられた田島秀男さんの作品です。
しかし、「おじいさんの時計」のように百年動くことはありませんでした。
〈変化長不完全〉それが『古時計』の時間を止める言葉でした。
はたして本当にそうだったのでしょうか。
あれから十年余り、私たち「蜜の味グループ」で無駄合の話が出た折りに、ふと、この作品を思い出し、見解を求めてみました。
「・・・・それはさておき、果たしてこの変化長裁定に至った議論(後述)におかしな点はないのでしょうか?」
なお当時のメンバーは、岡崎正博、金子義隆、森田銀杏、山田修司、湯村光造の各氏と私の6名。現在は巨椋鴻之介さんが加わっています。
意見を交わしてみると、「問題の変化を作品のキズと感ずる人もいるだろう・・・・」という発言はありましたが、当時不完全とされた本局に、全員が変化長とはみなされないとする見解で一致していることが分かりました。
裁定とは正反対の結果になったわけです。
そこで、あらためて『古時計』の作意と、不完全裁定に至った経緯を紹介し、併せてこの名作の失地回復を図るべく、説明を進めていきます。
本稿をお読みいただき、読者諸兄の賢明なご判断を仰ぐものです。



まずはとにかく、古時計の図と作意を並べてみましょう。

furudokei-p.png

こちらは発表図。後に改良されており、今回はその改良図のほうで話を進めていきます。



ご覧の通り、最近の田島作と比べれば、構造は非常に明快。
5筋6筋をくるくると回している間に、持駒が歩4→香4→桂4と変化していきます。
歩から香になるところは解説は必要ないでしょうね。ただ追い手順中、最初の1回転は48手目52玉、41飛成、53玉、43龍とよろける手順が入ることに注意。香が1枚でも持駒に入った後は、52玉のときに53香~41飛成で早詰です(原図と比べて59歩があるのでこの4手が伸びた)。
また4回転目は、80手目53飛合が利かなくなります。詳細は分岐参照ですが、「桂を1枚でも持った状態で75香が打てれば詰み」と覚えてください。
そしてこの機構により、香合が品切れになった後は桂合が続きます。その途中に玉方に香を渡すにも関わらず、再び香合されて千日手に陥らない理屈は、75に利かせることが鍵になっていたのです。
持駒が4桂になれば、もう75に利かせる桂合が品切れになり、53香合から収束に入ります。短編のように切れ味のいいまとまりで、解答者からは絶賛の嵐でした。



完璧としかいいようのない傑作です。
解説の上田吉一さんが、異例とも言える5ページを割いて詳細に解説されたのもその表れだったでしょう。
ところが結果発表翌月、本局に「変化長ではないか」と小沢正広さんから疑問が寄せられます。



問題となったのは、166手目65玉の変化。
玉方の香が尽きるまでこの変化を選び続ければ、手数が大幅に伸びます。
解説ではまったく触れられなかった部分で、これに対して作者は、「65玉は前の63香合を無駄にさせる手」だと主張します。
158手目の63香合自体はもちろん無駄合ではないのですが、玉方が65玉とすることによって無駄合になってしまうということ。
だから「無駄合はしない」という詰将棋のルールに反するので、65玉は「選択肢にない」という理屈。

なんだかこのフレーズ、聞き覚えがありまして……。
以前このブログで書いた、このセカイに意味はあるかに登場した理論です。
こちらの例題ではただの無駄合についての議論でしたが、古時計では、それに関して原型復帰型という厄介な問題がついてまわっているのです。

古時計が変長であるという小沢氏の指摘と、作者の主張。これを併記した上で、当時詰パラを引き継いで間もない柳原編集長は、「作者の理論にはかなり無理があり、本局は不完全扱いとします」と断を下しました。
これに作者は反論をすることもなく、名作がひとつ、闇に葬られました。
その古時計の針を再び回し始めたのが、この安江論文。安江氏は論拠として、「象戯大矢数」の巻頭局を持ち出します。



1697年刊の作品集、「大矢数(おおやかず)」。作者(編者?)は无住僊良(むじゅうせんりょう)。
「百之外」「百手四度戻り」などと別名も多いこの作品、馬鋸の一号局です。
18手目に72歩合とすると、歩が尽きるまで手数を伸ばせる、いわゆる原型復帰型無駄合含みです。
明文化すると、「その後詰方の持駒が増えるだけで、同一局面に還元する応手は無効」となります。
当時でも、馬鋸における原型復帰型無駄合は、無効とされていました。

安江氏は、「心得べきは、〈無駄な応手〉であって〈無効な合駒〉では本来ない」と主張します。
したがって、古時計の65玉は〈無駄な応手〉として無効とされるべきだ、と。
原型復帰型無駄合と本質が変わらない手だということです。

以降、再び安江論文の抜粋。



作者はこれを主張するのに、従来からの無駄合の概念だけで応じたため、論旨に明快さを欠きましたが、噛み砕いて読んでみれば作者の主張されていることは同じ、決して「無理な理論」ではありません。
メールによる意見交換の中から、本局発表当時休眠に入っておられた山田さんの発言を引用させていただきます。
(山田修司)
『この作で問題になる65玉の応手は、その後詰方の持駒が増えるだけで、局面や詰手順の展開に本質的な変更や影響を与えませんから、手数の引き延ばしを計るためだけの応手です。
玉方は最長手順に逃げるということから言えばこういった応手も充分意味はありますが、我々は、玉方の駒がなくなるまで単なる手数引きのばしを繰り返すだけの手は無効な応手、或いは無意味な応手としてきました。
大矢数の72歩合を無効な応手と位置づけ、これを無駄合と称して廃することにしたのはその表れです。
大矢数の72歩合と古時計の65玉を比べると片方は合駒、片方は合駒でないという風に形を変えていますが、全く同じ効果や意味を持つ応手です。
従って、我々が「最長応手」の考え方から、手数を引き延ばすためだけの応手を外そうと考えている以上は、この作も馬鋸の無駄合が利く型と同じく、完全作とみなすのが、公平であり筋の通ったものの見方と思います。
従来、馬鋸にそういった疑問がでなかったのは、単に見慣れているからに過ぎません。
古時計のようなケースは多分初めてでしょう。その点だけでもこの作は大矢数の馬鋸同様、歴史に刻まれる価値がありました。
慣習にないことから、違和感を感ずる人はいたとしても、それをもってこの名作を闇に葬ることはなかったと思います。作者本人の説明は、「65玉は158手目63香合を無駄にさせる手」というように63香合が結果的に無駄合になるという迂遠な言い回しですね。
(鈴川注:古時計は185手詰から189手詰に改良され、本稿では改良図で説明しています。したがってここで引用した「158手目63香合」は162手目のこととして解釈してください)
馬鋸の72歩合の繰り返しがダメなのは「無駄合」だからダメなのではなく、手数を引き延ばす以外に意味のない応手だからダメなのであり、それが合駒だから「無駄合」と名付けられているに過ぎないのです。
合駒するのも別の位置に逃げるのも、どちらも玉方応手の一種であることに変わりはありません。
ですから作者の反論は65玉の応手そのものがダメな手だ、と主張した方が良かったかも知れません。
小沢さん、柳原さんにはもう少し柔軟に考えて欲しかったと思いますが、今までなかった型ですから田島さんの言い分を素直に肯けなかったのは、無理もないところはあります。
田島さんの説明は間違いではないと思いますが、分かりにくかったのかも知れません。
また、まわりの詰棋人は一体なにをしていたのか、といった義憤も感じます。当時の詰棋界に、このことを柔軟に判断できる人がいなかったとは思えませんが、何故、田島さんの応援に廻る人や関心を持つ人がいなかったのでしょう。・
かえすがえすも、この傑作に不完全作の汚名を着せてしまったのが残念ですね。』
当時積極的な応援に廻らなかった私には、耳の痛い言葉です。
「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや・・・」かっての山田修司さんのようにひとり無念を噛みしめていたに相違ありません。
これを境に静かに詰棋界を去ったかに見えた田島秀男さんは、月日とともに心の傷も癒えたのでしょうか、最近は正解者皆無の傑作『乱』で看寿賞、『乱』に勝るとも劣らぬ名作『らせん』でめいと賞を受賞するなど、相ついで大作を世に問い、その天分を発揮しつつあります。

『古時計』は回り始めたのです。



さてこの論文が出るやいなや、各地で議論が活発に行われ、翌月4月号にはたくさんの意見が読者サロンに寄せられました。
要点だけ紹介していきます。

川崎弘氏
玉方最長原則に反する、無駄合の概念がどうしてできたか。指将棋からの素朴な感覚に基づくが、「原型に戻るまでの順が一目でわかるから」が暗黙の了解であり、戻るまでの順が難解な場合は想定されていなかった。後者のケースは古時計を含めて私が知る限り3局であり、いずれもその都度疑問が提示された。
想定していなかった事態が起きたのだから、総合的に議論を重ねた上で解釈を確定するのが本筋だろう。
これについての詳しい私見は「詰棋めいと20号」に掲載した。(現在手元になく参照できず)

白川文夫氏
無駄合は変長の中で例外的に不問とされてきたもの。よって手数を引き延ばすためだけの「応手」を排除してきたのではなく、手数を引き延ばすためだけの「合駒」を排除してきたのだ。よって古時計の65玉は合法。
例えば下図で38歩合は「無駄合」ではないが「無駄な応手」には当たるだろう。こんなのも認めろというのか。
shirakawamudaai.png
(38歩合以下、同馬、18玉、36角、27歩合、同馬、29玉、47角、38歩合……)

護堂浩之
私が問題だと感じたのは、「65玉が無駄な応手か」ではなく、「63香合~65玉の組合せが無駄なのか」ということ。例えば「63香合とするとその後の65玉という無駄な応手が最善となってしまうので、63桂合が作意です」という場合も考えなければいけない。馬鋸の無駄合の延長線だけで片付けられるものではない。
また、解答者の負担はどうか。ループ手順が長ければ長いほど、無駄とは言えなくなるのではないか。
なお山田氏の発言中の「小沢さんは柔軟に考えてほしかった」という部分は間違え。彼は「この変化は変長なのではないか」と指摘しただけなのだから。むしろわかりにくい変化の書き方をした作者が第一の責めを追うべきでは。

大和敏雄氏
私の無駄合判定基準は、「合駒を王手した駒ですぐに取って」、「その合駒を使わずに」、「2手長くなる」こと。
すると大矢数は変長になる。ただ馬(龍)鋸作は例外としてもいい気がする。近年では合駒されたら早く詰む工夫がなされている作が多いが。
古時計完全説の骨子は、「合駒以外の玉方無駄手がある」ことだとわかったが、合駒以外の玉方応手はすべて有効手であって、そのうち作意でないものを変化と呼ぶのではなかったのか。
「原型復帰」の概念は玉方応手ではなく、攻方の無駄手(連続王手の千日手)を排除するために使われたものではないのか。持駒を含めての「原型復帰」判定と分けるべき。

議論はさらに5月号読者サロンにも続きます。

山田修司氏
誌上では反対意見が先行するようだが、詰工房サイトの詰将棋メーリングリストに寄せられた意見では逆の現象が生じているようだ。以下、各氏の意見。

山田剛氏
安江氏の論旨には概ね賛成。
無駄合はいろいろ問題を抱えてはいるが、みんなが賛成しようが反対しようが一つに決めなくてはならない。そのようなルールモデル論を確立する必要がある。

森田銀杏氏
その他にキズ作だと思っている人もいるだろう。私も、馬鋸の無駄合と同様にやむを得ない変長だと思うので、作意との相対評価で出題の適不適を判断すべき。

田口正明氏
どうもピンとこないので敬遠したい。

伊藤正氏
玉方最長の「例外」をいくのが無駄合の概念。例外が形成されるには「こんな手は意味がない」という共通感覚が必要。

山田剛氏
ここでいう共通感覚が、「詰将棋界における共通感覚」だとすれば、閉じた世界におけるそれが最優先されていいのだろうか。「詰将棋界のしきたりを理解できない輩はこの世界に入ってくるな」とならないか心配。

伊藤正氏
安江論文における古時計完全説の証明は、「無駄合が禁手になった理由は一般化できる」ことを前提としているが、果たしてそうか。

山田修司氏
詰将棋はフェアリーと違って、まずルールありきではなく、実戦の終盤から派生したものなのだから、ただ相手に駒を渡すようなそれこそ意味上における意味のない手を許さない実戦感覚が背景にある。だから無駄合はしないこととして発展してきた。
歴史的に考察するなら、詰将棋の解答募集形式の普及に伴い、そのルールが後付されたのだ。
「玉方最長則の例外が無駄合」なのではなく「無駄合の排除によって玉方最長則が成立している」と考えれば、見え方も変わってくるのでは。

摩利支天氏
先月号に出ていた意見は、今後の詰将棋の発展を考えた建設的な意見とは言いがたい。
古時計は、従来の規約の概念のあり方を問う問題提起だった。
詰将棋のルール作りとして捉えるべき問題が、いつの間にか作品成立のための問題にすり替わってしまっている。

山田修司氏
これだけの評価を受けた作品を、一朝にして不完全作としてしまった扱いは乱暴だった。
結論は保留し読者の意見を広く求めるというのが、鶴田主幹依以来のパラの伝統ではなかったか。
あるいは問題点を明らかにした上で評価は鑑賞者と歴史の審判に委ねる、でもよかったと思う。

松沢成俊氏
「不完全作は乱暴」には賛成だが、私は古時計を解いたとき、作意がわからなかったのだ。この無駄合絡みの引き延ばし手順が完全に不問になるとは思えない。少なくとも解答募集のときは明らかに詰まない順以外は正解にしてもらわないと困る。

山田修司氏
作品の完全・不完全とは別に、解答規定の面で考慮すべきことがある。
これらの概念を混合しないようにしなければいけない。
いずれにしても、10年前の古時計発表時に、この問題に気付けなかったことを歴史的事実として受け止めるべきだと思います。



ここまでをまとめるのにたいへん苦労しました 笑。
さらに翌月、6月号に続きます。さらに要点だけをかいつまんだ書き方になりますが。

安江久男氏
いったんルールを決めたら、当事者のみならず、第三者が客観的に判断して同じ結論に至る指標になってこそルールたりえる。たとえ感覚的に違和感を伴おうと、条件に合致する限り適応しなければならない。ただし、評価を与えるのは鑑賞者に許された自由な権利だ。
客観性のあるルールは必要。だからこそ数百年続いた妙手説は排除されたのだ。「原型復帰する手順が難しいから有効合とみなす」という考え方では、客観性のあるルールを作ることは困難。それこそ作品の完全性と解答審査を正しく分けて考えることができれば、回帰手順の複雑さは何の障害にもならないと思うが。
私が引用した山田さんの発言は仲間内でのメールのもので、公式な発言ではなかったことは申し訳ない。だれの責任かという部分は本旨ではないことをご理解頂きたい。また当時まだ若かった作者に多くを求めるのも酷ではないかと。
いずれにしてもルール規約が簡単に割り切れるものではないが、少なくとも古時計に関しては早急すぎた不完全作判断を白紙に戻すべきだ。

護堂浩之氏
作品の完全性と解答規定を切り離してしまうと、合意が取れているとは言いがたく、看寿賞の選考方式にさえも影響するのではないか。
とにかく安江論文だけで古時計が動いていると言うには不十分。議論を突き詰めた結果、古時計が不完全作となったとしても、詰将棋の歴史から忘れられることはないでしょう。
ただ、名作選などに掲載できないということはあるかもしれないが、それは編集者側の問題だろう。

川崎弘氏
無駄合などの曖昧な部分をそもそも明確に決める必要があるのかどうか。「シロクロは明確に決め得る」の判断に基づき「決めるべきだ」を方針とする立場と、「実戦から自然発生した詰将棋ではシロクロを明確化できない部分がある」として「せめて灰色度を判断する基準だけは明文化しよう」とする立場がある。もし規約作りをするならば、どちらの立場で行うかをはじめに決めなければいけない。
私は後者派だが、コンピューターに触れている方は前者かと。もちろんソフトを作る上では前者の立場をとる必要があるが、それを実用に100%適応させるか否かは別問題。

筒井浩美氏
古時計はさておき、大矢数に代表される原型復帰型無駄合について、これを無駄合とする論拠は「持駒には限りがあるのでいずれは合駒ができなくなってしまう」ことだと思うのだが、例えば図巧100番における77同との応手は「いずれはと金がなくなり桂を取れなくなってしまう」から無駄な応手であるといえるのではないか。その根本的な違いとは。(図巧100番の例についてはわかりやすいように鈴川が勝手に替えました。なおこの疑問に対する僕なりの答えは、「持駒が玉方から攻方に渡ることによる玉方のメリットは論理的にゼロだが、盤上の玉方駒が消えることの玉方のメリットは時としてプラスになるから違う」です)
山田氏は実戦感覚云々と仰っているが、近代の詰将棋は実戦感覚を排除する方向に動いているように見える。そんな流れの中で実戦感覚に基づく判断をすることは時代に逆行しているのでは。



詰パラに載っている、古時計に関する論争は、おそらく以上です。
繰り返しますが、僕はこの場で無駄合規約について議論しようとしているわけでもなければ、新しいルール規約を作ろうとしているわけでもありません。
ただ今までネット上では情報がなかった古時計という作品に関して、これから詰将棋に取り組んでいこうという方々にも知っておいてもらいたかったこと。
そして詰将棋のルールについて今後議論したい方は、今まで何度か行われてきたこのような議論を踏まえた上で、相当の覚悟を持って行って頂きたいということ 笑。
歴史を知らずして今を語ることはできません。しかし詰将棋という小さな世界では歴史を知る方法も限られている。だからその一部だけでも、ネットを通して、ここに紹介しておきたいと思ったのです。

そして僕もこれをまとめる上で、以前ちらっと言っていた詰将棋機械論およびソシュール言語学的詰将棋分析法に関して、少し前進したように思います。

実戦から派生した詰将棋は、独立の分野を切り開くため、ルールの大枠が用意された。
そこではもちろん実戦的に妙手とされる手が妙手と扱われてきた。
しかし現代では、詰将棋の芸術的要素をさらに開拓しようとしている。
だから、ルールを先に用意することによって、詰将棋のフォーマットを逆転させてみる。
意味により言語が作られるのではなく、言語があるから意味が発生するのだ。
我々は、言語記号の網の目を通してしか、事物を分節できない。
言語を用意すれば、その組合せのすべてのパターンを網羅できる。
新しい言語をもとに形成された詰将棋では、いったいどんなことが表現できるのだろう。

田島秀男作401手の鑑賞

今月号デパートで解答発表されている、正解者0人の田島秀男作。
この結果稿の文字数ではまったく語り尽くせていないのだろうとは思いますが、とりえあえず解説を読んで、作意がなぜ成立するのかというところまでは理解しました。
おそらく敬遠して手順もまだ見ていない方が多いと思いますので、そういう方のために簡単な解説をここに用意してあります。



2/19 細かい変化・紛れを加筆修正しました

長編には疎い僕で、どんな作品でも見るたびに、よくこんな手順が実現するものだと感心してしまうのですが、この作品の深みは突出しているものがあります。
上のフラ盤で、作意と主要な分岐を見るだけでも、ぜひ。

そして、なぜこれを記事に取り上げたかと言いますと、同じく原型復帰型無駄合の理論を使った「古時計」にも焦点を当てたかったからです。
こちらは次の記事で書く予定です。

このセカイに意味はあるか

なんか変なタイトルですが、オオサキさんのブログを真似てみました。
土曜日、Twitter上で無駄合に関する熱い議論をしていました。もともと桃燈さんが作った作品が、無駄合かどうかグレーな部分があるということで、それに僕とikironさんが加わって話していたのです。
で、それを考える上でテーマになるのが、詰将棋の手に意味を見出すべきなのか、ということ。
ひとまず次の図を見てください。

dashinmudaai.gif

これを見て、おおまかに4通りほどの解釈ができると思います。それぞれA、B、C、Dさんとして、議論してもらいましょう。



Aさん
15龍、14金合、同龍、同玉、24金迄5手の完全作。
2手目に22玉とするのは同手数駒余りなんだから、こっちが正しいでしょ。

Bさん
15龍、14金合、同龍、22玉、12龍、33玉、32龍迄7手駒余りの不完全作。
2手目14金合まではAさんに異論はないが、よく見てほしい。14同龍に対して同玉なら5手詰、22玉なら7手詰になる。駒余りになろうが玉方は最長の順を選ばないといけないから、こっちが本手順だよね。

Cさん
15龍、14金合、同龍、同玉、24金迄5手だが、4手目22玉は変長になるキズ持ちの作品だ。
現代のお決まりとして変長は許されないけど、これは合駒絡みであるし、何よりBさんの言う手順では14金合をした意味がまったく出ないのが気になる。

Dさん
15龍、22玉、12龍、33玉、32龍迄5手駒余りの不完全作。
14金合をした場合に同龍、22玉以下の手順が最善になるのはいいけど、2手目22玉とした手順と比べてみなよ。金合したかどうかに関わらず、ぜんぜん手順の本質が変わらないじゃないか。つまりこの14金合は無駄合で、玉方はそもそも14金合ができない。だから2手目は22玉と逃げるしかなく、これが本手順ということになってしまうよね。

Bさん
どうしても気になって仕方がないんだが、AさんとCさんにこう質問してもいいかい。14金合をした局面が初形の詰将棋があったと仮定しよう。

dashinmudaai2.gif

これならさすがに14龍には同玉と取れないだろうね。22玉以下の5手駒余りが正規の手順ということになる。でも君たちの考えによれば、これを2手逆算した原図では、14同玉が正しいと言う。逆算によって最善手順が変わるなんてことが、あってもいいのかい。

Cさん
確かに違和感のあるところだけれど、逆算で手順が変わるのがやむを得ない場合もあると思う。手には必ず目的というか意味があるはずで、それを無視して以下の手順を無機質に進めてしまうのが落とし穴なんだよ。14金合とするのは、同龍に対してそれを取ってやろうという意味があるからだよね。だからこっちを本手順にするべきだ。
Aさんも僕と似たような立場だと思うんだけど、変長ですらないって判断するのは、どうして?

Aさん
やっぱり詰将棋はすべての手に意味があるという考え方が元になってる。14金合、同龍に22玉と逃げるなんて、14金合の意味を消失させるっていうことだから。僕の中ではここでの22玉は「選択肢にない」っていう扱いだね。変化として考えてないから、変長ですらない。

Dさん
合法手なのに選択肢にないの? 玉方はすべての合法手の中から最善を尽くすことになっているのに?

Cさん
14金合とした以上、次の22玉は棋理に反する手っていうことだよね。まあでもグレーな部分が多いと思うから、僕は変長っていう微妙な扱いにしているんだけど。もし自分でこんなの作っても発表はするべきじゃないと思うし、したくもないな 笑。

Dさん
棋理なんて言葉が詰将棋に出てくるとは思わなかった。僕は詰将棋には一切の自由意志は働かないものと思ってる。つまりどういうことかっていうと、先に論理があって、それに従って詰将棋はできている。極端な話、詰将棋は論理の塊であって、最善手順は常に一つに決められる。でも、そこに人間が美や感動を見出すから、芸術としての側面が成り立っているんじゃないかな。
だから手に意味なんてなくていい。この14金合だって、歩合とか23玉とか数ある変化のうちの一つに過ぎず、僕らは機械的に最善手順を見分けなきゃいけない。
そういう点で僕とBさんは気が合いそうだね。

Bさん
僕もDさんの詰将棋機械論というか詰将棋唯物論には賛成したいね。でも14金合を完璧な無駄合とみなすのはかなり困難だと思うから、どれが最善手順かという点ではCさん寄りの意見。ただ僕の辞書には変長の文字がないものでね。このご時世、もう変長の概念がなくてもやっていけると思うんだ。そういうものは全部駒余りの不完全扱いでまとめたくて。

Aさん
詰将棋で手の意味を考えないとかありえないでしょ。例えばDさんの無駄合にしても、「無駄」って、意味があるかどうかという概念じゃないか。
逆に感覚的にこの手に意味があるかどうかの判断が先にあって、それをルールとして成文化したのが詰将棋だと思うけど。だからこそ今も無駄合議論は解決をみないわけで。

Cさん
僕はBさんとは正反対で、無駄合とかそういうものは全部ひっくるめて変長と考えてる。で、それが許されるかどうかは自分の感覚次第っていう感じ。
まあともかく、こんなに意見が分かれるんであれば統一的なルールを作ってそれを押し付けるようなことは難しいし、それをして得をする人もめったにいないだろうね。



議論が煮詰まってきましたね。
ちなみに僕は「Bさんに限りなく近いDさん」という立場です。

ナンセンスだとは思いますが、アンケートのようなものを設置してみます。




コメントは50字以内しか書けませんので、この記事のコメントのほうにどうぞ。

補足:もともとの議論の題材となったのは桃燈さんの作品で、これは未発表です。鈴川が意見が分かれた根本の部分を取り出して簡単な例題にしたのが、上に載せた図です。

参考:
Twitterグループトーク
ちょっとやってみる よく分からない合駒
書きかけのブログ シュレーディンガーの合
日記的空間 このセカイに意味はあるか:ルール論の観点から分析してみる
my cube 内応中合
my cube 第94回今週の詰将棋

61金が泣いている

投稿用紙作成マニュアルでも登場した、あの作。

33-6.gif

解説はこちら。
まあなぜこれがたびたび話題になるかというと、61金が不要駒ということ。
大崎さんのブログでも2回も登場。
ここにいても、よいりゆう / 浦壁手筋とは何か
不要駒配置が鈴川手筋だなんて言われていますが 笑。

こうやって話題になるのは嬉しいことなのですが、相対的に作品の本質の部分に触れられなくなるのは少し不本意。そこで改作を試みました。

33-6p2.gif

改作とは言っても、投稿前に既にこの図は得ていて、どちらにしようか迷った挙句61金を置くことになりました。
この図では、その代わりを果たすのが31飛。しかしこれは不要駒ではありません。
原図にはあった42桂。これは34へ利かせるための余詰防ぎだったわけですが、31飛はその代役も担っています。これがないと36玉に対して45角、35玉、34とという順で余詰みます。
そして増えた12歩。飛は34にダイレクトに利いているわけではないので、やはり防ぎきれません。35玉に対して13角、同と、25と、同玉、34銀のような筋で余詰むので、その防止です。

図だけを見ると、駒数は変わらないものの改作図のほうがバランスが良く、貧乏図式になっています。(まあと金があるものは貧乏図式と呼ぶことに抵抗を感じますが、使用駒の統一感としては勝っています)
ではなぜこの図を選ばなかったかというと、この作品の主張点として、「小駒図式から」角飛角飛の連続合が出てくることがあったからです。それを狙っての金配置だったのです。
しかし、大学解答のブログを見ると、小駒図式に触れた短評は一切なし。つまり無理をして不要駒61金を置いた意味が失われたわけです。それどころか61金の意味を尋ねる短評まであっては、逆効果になっているのが分かります。
こればかりは作者と解答者のすれ違いに他なりませんね。

ちなみに最近は左玉に凝っていて、この機会に左右反転しようかとも思ったのですが、これは右のほうが好きです。理由はありません。

パラ2014年11月号小学校改作

こちらの改作図を上げておきます。



創作過程を少し。
まずこの5手目を実現させたいと思ったのがスタートでした。玉で取ったら両王手、銀で取ったら透かし詰で気持ちいいと思います。
原図は下段にあったので、銀の成生が絡んできます。しかしこれを限定するのはさすがに無理。ということは、透かし詰のほうを作意にできなくなりました。

ちなみに僕は成生の限定はかなり気にする部類だと思います。世の中、不成を狙いにした作品がたくさんあるので、成も限定でなければおかしいのではないか、と思ったのがきっかけです。しかし飛車や角まで成限定で作ろうとするとなかなか難しいので、ある程度は認めます。しかし非限定だと確実に自己評価は下がりますね。
そこで問題は銀、桂、香の成生。まず銀ですが、これは実戦でもよく不成を指すように、成と生は等価だというイメージです。すなわち銀成と銀生は別の手とみなして、攻方でどちらでも詰むのはほとんど余詰に近いとさえ思うこともあります。逆に、成限定、生限定、どちらでも評価は同じくらい高くなります。
桂馬で成生非限定は、攻方なら開王手のときしかありませんが、これは必ず限定しなければならないところ。玉方の手でも、何かを犠牲にしてでもできるだけ限定したいところです。
香車は特別で、非限定は往々にして合駒を取る場合ですが、これは仕方ないかなと。まあ中には自作にこんなのもあるわけですが。

とにもかくにも、本作ではこの成生非限定は致命的です。そこで同玉のほうを作意にしなければと思いました。
その後三輪さんから改作案をもらって、同銀のほうを作意にすれば、うまくいくことに気付きました。上の図でいうと43歩を置けるのが大きくて、これで多くの余詰を消すことができます。そしてこの場合、同玉は43角成で駒余りとなります。
そしてこうやって中段に平行移動すると、銀の成生非限定がなくなるのがいいところです。これで堂々とこちらを作意にできます。

実は創作している時も中段の案は考えたわけですが、その時は43歩を置くことに思い至らず、同玉を作意にすると最終手43角成が成生非限定になってしまいます。さっき角の場合は許容範囲と書きましたが、この場合は違います。なぜなら両王手の締めは全体のなかでも龍捨に続く決め手として大きな目玉の部分だからです。これが非限定では本末転倒。
しかし43歩を置いて変化にしてしまえば、それが解消されるんですよね。

もう一つ。原図を見ると、初手の重い角打、3手目、そして主眼の龍捨、透かし詰という構成になっているわけですが、どうも3手目がヌルい。それを限定するためだけの14歩配置も情けないです。ちなみに以遠打もある程度気にします。この場合、詰上りに残るので限定は絶対です。
そういうところを解消したのが、上の改作図で、取れない捨駒というかっこいい手に昇格しました。同とは14飛以下ぴったり駒余りで割り切れています。

初形を見てみても、駒数が1枚減って、配置の空間のバランスもいい感じです。そして手順を並べれば、全ての駒の意味付けがすっとわかるようになっています。(例のごとく、自陣と金は気にしないどころか積極的に置きます)
ここまできれいに改作できたのは久し振りで、気持ちいですね。三輪さんに感謝です。

自分の過去作を見てみると、改作したいものはいくつもあって、いずれ取り組んでいきたいです。そうですねー、自分の作品集を作ることになったら、です。まだまだ先の話で、なんにも考えていませんが、いずれ出したいです。あ、タイトルだけは密かに決まっています。

解付き#42の類作

someone like youみたいな感じで。

9-56.gif

解付き#42の自作。収束はお決まりながらも、銀不成が入って悪くはなかったのですが。



9-56+2.gif

近代将棋1982年9月号
有吉澄男氏 15手詰(余詰)

作者名からわかる通り、あぶり出しです。序は武骨ながらも、銀を合駒で発生させるのはさすがです。最後に「ス」が出てくると、はっとしますね。



9-56+3.gif

将棋世界1991年8月号
伊藤正氏 9手詰

やはり今度も合駒で発生させていますが、こちらは移動合不成。シンプルな形という点ではこれが完成形でしょうね。



9-56+4.gif

詰将棋パラダイス1993年9月号
柳田明氏 15手詰(余詰)

A級順位戦での出題。初手49馬に38香成、同馬、27銀打合という出だしです。この銀合を歩で取って同銀不成、と続きます。ただ、駒取り3回は多い印象で、最終手非限定もちょっと気になります。



9-56+5.gif

将棋世界2007年7月号
平松準一氏 11手詰

将棋世界での衝突。僕としてはこの序2手は不要に思います。



9-56+1.gif

第7回詰将棋解答選手権 2010年
宮浦忍氏 9手詰

一番新しくて一番似ています。85が龍なのが良くて、86銀、87玉となった時に開王手の偽バッテリーができるのが巧いですね。



Twitterでさらに指摘を頂いたので追記。

9-56+6.gif

詰将棋パラダイス1973年4月号
高橋和男氏 13手詰

宮浦氏と同じく、最後に龍を捨てるパターンです。横ですが。
かなり昔です。持っている詰パラを漁って探しました。



これだけいろいろなパターンにまで広げてしまうと、いくらでも浮かんできますね。最近の詰パラでもあと2作ほど思い浮かびますし、下のコメントで三輪さんの発表作にも同じ収束3手がありました。
まあしかし、これはこれで基本手筋の1つとして捉えてしまえば、類作とはならないでしょう。

というわけで、皆さん情報提供ありがとうございました。

詰パラH25・6デパート5 三輪さんの改作

タイトルの通り、詰パラ今月号で解答発表されているデパートの自作の改作を、三輪さんから頂きましたので、ここで紹介します。
結果稿の詳細はこちら。(手順は下の将棋盤の左下を選択して見ることができます)



三輪さんのコメントです。一部省略あり。
「収束は11玉方を置いて22馬、同玉、32龍迄にしたい。余りこうしたいと言う意識がないため気付かなかったのでしょうか? 僕は収束緩む31とは相当辛いのですが…。
11玉方を置くと31とはあり得ない。モデルメイト必須主義者としては41銀か44桂しかない。その形は33角が入る。(38角ではダメですが) その形はもう少し逆算したい。それが改作した理由です」

原作は使用駒6枚の簡素図式で、デパート担当者にも「一切の不純物がない」と評価してもらえました。ある作家の方が「究極の作品には、推敲の余地など最初から無いのです」と仰っていましたが、本作がこれに当てはまるということかも知れない、と喜んでいたものです。
しかし三輪さんの改作で、その自惚れが打ち砕かれました。(笑)

原図と改作図、どちらが良いかということは、僕には比較できません。改作というよりも、むしろ別の作品のような気がします。原図は簡素図式そのものが狙いに含まれているので、改作図ではその本質がなくなり、代わりに序の歩突きが収束と対照的な味が付加されています。

原図は「なるべくしてなっているもの」、改作図は「人の手によってまとめられた作品」という感じでしょうか。

それにしても、この簡素図から改作が生まれることには驚きました。また、改作意欲を持たれた三輪さんにも感服します。

「この図を作るのに5~6時間かかっています。なんたる無駄な時間。まあ、僕は自作に膨大な無駄な時間をかけていますので息抜きの時間に使ったと考えています」

こう言ってしまえるのもすごいですね。

詰将棋の良し悪しと難易度

数日前に、このブログで詰将棋の良し悪しと難易度の関係について僕の意見を書きましたが、Twitterでいろいろと反応があったので、ここにまとめておきます。

まずは、「易しいけど楽しい」という評についてです。褒め言葉だと受け取ることができますが、実は、ある方が指摘された通り、「けど」という逆接の助詞によって、易しいことそのものが否定的に捉えられているニュアンスを含んでいます。
ほとんどの解答者、作家、そしてこのブログを見ている方々は、作品の難易度と良し悪しが比例する、という考え方は正しくないと認識していると思います。

そこで、この言い方をどのように変えれば良いか、です。難易度と良し悪しは全く関係がない、と考える方は、「易しいし、楽しい」「易しい上に楽しい」などと表現すると思います。
しかし僕は難易度と良し悪しが密接な関係にあると思っています。その作品のテーマによって、易しいほうが狙いがストレートに伝わって楽しかったり、難しいほうが数ある微妙な紛れの差異から正しいものを選び抜いていく楽しさがあったりするからです。
したがって、「易しいけど楽しい」という表現も適切だと思います。例えば、この紛れ筋がもっと強力なら、作意が引き立って楽しくなるのに、という具合です。

ちなみに、僕が目指す詰将棋は、「易しいからこそ楽しい」と感じられる作です。これは、変化紛れがほぼゼロに近かったとしても、テーマ自体が作意に現れているため、ダイレクトに楽しさが伝わるものです。詰将棋初心者でも、鑑賞専門の方でも、作意手順を見れば狙いが伝わります。
全ての作品は易しければ良い、ということではないです。ただ僕は易しいほうが楽しさが伝わるようなテーマを理想としているのです。

問題は、「易しい」「楽しい」作品(あえてこういう表現にしておきます……。)は、後世に残りにくいことです。深い変化紛れを備えた作品や斬新な構想作には、看寿賞や半期賞が与えられ、僕もある程度は知ることができます。しかし、過去の「易しい」「楽しい」作品を知る手段は、ほとんどないと言ってもいいでしょう。
そこで、このような作品に対して与えられる新しい賞の設定、もしくは定期的な作品集の発行などが望まれるところです。
難しい作品よりも、「易しい」「楽しい」作品のほうが、詰将棋の啓蒙にも大いに役立つと思います。


ではここで話を変えて、デパート担当さんの意見を紹介します。(以下、Twitterからの引用)

結論から言うと、僕はやっぱり難易度は詰将棋に重要な要素とは思えない。

まず、テーマに伴うある種の難解性と単なる煩雑さとを整理しておく必要がある。世の中には、紛れと作意の差をテーマにしている作品もあって、たぶん鈴川君が「楽しさを引き出す難易度」としているのはこっちのことだろうと思う。しかし、解答者の評価では両者はほとんど区別されていない。

解答者の論理では単に「苦労して見つけた作意ほど良い手順」であることが多く、それがパラの作品発表の基準をゆがめていると感じる。すなわち、内容は優れているのに、変化紛れ(多くの場合、それは煩雑であるにすぎない)に乏しいというだけで発表の場がない作品がたくさんあるのだ。

僕はデパートの担当になるとき、そうした解答者の論理では評価されない作品を掬い上げたいと考えたし、それを一つの使命とも思った。だから僕が解説に「難易度は副次的でどうでもいい」と敢えて挑戦的に書いたのは、一つにはそうしたデパートの運営方針から来る戦略的な理由だ。

もちろんそうした計算とは別に、これは僕の本音でもある。自明なこととして、詰将棋は内容が第一である。その内容を引き立てる要素が精巧に組み立てられているとすれば、それは意図された「別の内容」なのであろうと思う。このことと、単に複雑であることによる難易度とを混同しがちである。

僕はそうした複雑さが詰将棋においてまったく本質的でないと言ったのであって、結局鈴川君と同じ立場に立っていると思う。ただ「易しいからこそいい」というのも、少し踏み込み過ぎではなかろうかと思う。というのも、目指す内容に必然的に付きまとう複雑さというのもあるからである。

僕は優れた作品というのは、素材が導く通りに過不足なく作られた作品であると考える。この素材の段階で、絶連になるものとどうしても複雑になることを避けられないものがある。これを作者の都合でコントロールしようとするのは最善形の追求から遠ざかることだと思う。

結局、素材の完成を目指すなら、難易度のコントロールなんて完璧にすることはできない。難易度は内容を追い求めた末に偶然得られる結果なのであって、それは副次的な要素としか言いようがないと思う。だから僕は順接でも逆接でもなく「易しいし、楽しい」と並列で語るしかないと考える。

(引用終わり)

詰将棋を単純な逆算で作っていく時、僕は「駒取りはできるだけ避ける」「追加の配置はできるだけ避ける」ということを念頭に置いています。逆算の飽和状態に達した時は、とりあえず仮の完成図を作っておいてから、この2条件を破ってもう少し粘り、巧い手順が入らなければそこで終了、とします。
その際に、「難易度」にも少しだけ気を配ります。上の2条件を満たしてはいるものの、その詰将棋に相応しくないような難しさを引き起こす逆算は、場合にもよりますがしません。
もちろんその他にも、「形」「持駒の数」などのさまざまな要素を考え合わせて、最終的な完成図を求めるわけです。

デパート担当さんの意見は、最善形を探すこの過程において、「難易度」の要素を考慮しない、という立場だと思います。「その素材が導く通りに過不足なく作られた作品」と言われると、確かに「難易度」は出来上がった後に勝手に付いてくるものだとなりそうです。
しかし僕は「難易度」も推敲の過程で考慮したいです。詰パラでは短評をもらえるのは他でもない解答者ですから、解いた時の感想は、難易度に大きく左右されると思います。

Twitterでは、「難易度」自体が、作家視点と解答者視点で二つに分けられる、という意見も出ていました。「作者の言う簡単ほど当てにならないものはない」なんてこともよく言われます。
僕は、難易度は解答者視点で見るものだと思います。難しいかどうかは、実際に解いてみないと分からないです。僕は、自分で「易しい」と思っていた詰将棋を、解答者に「易しい」と言ってもらえると安心します。(ちなみに、作者が「難しい」と思った作品は、解答者は「非常に難しい」場合がほとんどです。)

それでは鑑賞者視点ではどうか……などと考えるといよいよ混乱してくるので、このあたりでやめておきます。

デパートでの「易しい」「楽しい」作品を、期待しています。他にももっと発表場所が増えればいいのにと思っています。

うーん、締まらない文章になってしまった。(笑)

詰将棋ウィークリー#62 補足

ずーいぶんと昔の話になりますが、詰将棋ウィークリー#62の解答発表時に、咲花さんから改作案をもらっていました。
もっと早く紹介したかったのですが、機会を逃してずるずると。あ、別に忘れてたというわけではありません。






幻想咲花 「改良点として、初手の味、持駒趣向、紛れ増量などでしょうか。図面は広がったし4段目のと金も気になるかもしれませんが、手順を考えれば僕は全く気になりません。三輪さんの意見を聞きたいですが、もしお気に召していただければ記事に加えるなりでしていただければ嬉しいです。この図で中学校に出したかった、というのが本音だったり…」

これに対する三輪さんの意見。

三輪勝昭 「僕はこの作品は9手詰としてオリジナル性に疑問ありと思っています。よって43角成捨てと43金合変化の比較は43金合の方が優れていると思います。収束までオリジナル手順だとしたら別の評価になりますが」

そして三輪さんの類作指摘。






湯村光造氏作 近代将棋・昭25・8

さらに、僕が詰パラを読んでいて偶然見つけた作品。






新開克行氏作 詰パラ・2010・9

うーん、ここまでくると、既にこの収束は使い古されているとしか言いようがないかも知れません。
おそらく、新開さんもそう感じたから、と金を3枚も配置して難解な序を付け足したと思われます。
咲花さんの案は最小限でまとまっている感じが好印象ですが、啓蒙作品となってしまうのでしょうね……。


駒の性能分析 歩兵

このシリーズも最終回です。なんと、前回「香車」の更新日時は去年の7月。さすがに間が開き過ぎですね。(笑)

さて今回は「歩兵」ですが、本題に入る前に……。この駒の読み方は、「ふひょう」ですよね? 普段は「ふ」とだけ言っているので忘れがちですが、将棋に熟練した方でもたまに「ほへい」と読んでいることがあり、ちょっと驚きます。

歩は、当然のことながら将棋で最も多い駒で、初期配置でも自陣の先頭にずらりと並んでいます。利きは1マスだけなので、地味な駒かとも思えますが、「一歩千金」「歩のない将棋は負け将棋」といった格言に表されているように、非常に重要な駒です。

hu1.gif

これは、図面の掲載が必要ないほど有名な作品です。詰将棋関係者なら光よりも速く詰手順が並べられますが、知らない人なら香車を並べていき、一枚足りずに困る様子が目に浮かびます。
しかしそんな人でさえも、この詰将棋において手順のどこかで歩を動かすことは考えないのではないでしょうか。もちろん、歩を成ればどの局面においても同玉と取られ、上部脱出が避けられないという理由で、歩成の選択肢を除外しているからだという説明は付きます。しかし、それを考える前にどうも感覚的に歩を動かしたくないという気持ちが少なからず働いていると思います。

それは、「歩は上部を押さえる駒である」という印象があるからだと思います。これは指将棋において上部脱出をさせない、つまり将棋の初期配置の影響を受けているのです。もし、指将棋の並べ方を全く知らずにこの作品を解こうとしたら、歩成を選択肢に入れる可能性が高くなるかも知れません。

若干話がずれましたが、この歩の印象を利用して、詰将棋らしい表現をすることが可能です。例えば次の作品。

hu2.gif

「実戦の詰将棋 初段120題」より
作意手順 31銀、23玉、24歩、同玉、25金、23玉、34馬迄7手。

自然な実戦形から、歩を突き出す意表の手。もちろんこれは初心者向けの詰将棋本からの引用ですから、詰キストには一目でしょうが、それでも実戦ではほとんど見ることができない手だと思います。


次の特徴へ話を移します。
詰将棋で歩が主役となる作品は、あまり見かけないのではないでしょうか。というのは、歩はやはり単体では動きに華がなく、詰将棋のテーマとしては不足であるからです。
そこで、複数の歩による舞い、「ダンスの歩」が登場するわけです。これはもともとは将棋用語ですが、既に詰将棋でもお馴染みと言っていいかと思います。

ダンスの歩は、詰将棋に細やかな捌きを求める際に最適です。一見単純な歩の動きも、数枚集まればまるでダンスしているかのように、華のある手筋に早変わりします。
自作から、歩による捌きの作を2つ紹介します。

hu4.gif

詰パラ2012年2月号 大学
収束部だけ摘出
作意手順 13歩、21玉、22歩、同玉、23歩、21玉、12歩成、同玉、22歩成、同玉、33馬、12玉、34馬、21玉、22歩、同玉、23龍迄。

このシンプルな形から、歩4枚によるダンスが現れるのが売りです。

hu3.gif

詰パラ2010年5月号 高等学校
作意手順 18歩、27玉、28歩、18玉、27歩、29玉、28飛、19玉、29飛、同玉、47馬、19玉、37馬、29玉、28馬迄15手。

これは邪魔駒消去が軸となる、ちょっと特殊なダンスの歩。

それでは、歩の特徴を最後にまとめておきましょう。
・歩は上部脱出を押さえるための駒であるという印象が強い。これを利用して盲点を突いた詰将棋を作ることも可能。
・詰将棋でのダンスの歩は、きめ細やかな印象を与える。

と、ここまで終えて疑問に思える方もいらっしゃるかと思うのですが、歩と言えば……そう、打歩詰打開・回避・誘致の手筋がありますよね!?
しかし、これらを数え上げているときりがないので、打歩詰に関する手筋は別の機会に、ということで。時期については未定です。(笑)

ここまで読んで頂きありがとうございました。

カレンダー(月別)
12 ≪│2020/01│≫ 02
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
FC2カウンター
About
my cubeへようこそ。詰将棋のブログです。駒を並べてアートが表現できるって素敵なことじゃありませんか? 詰キストの方もビギナーの方も楽しんでいってください。

Author:鈴川優希
主に月刊誌「詰将棋パラダイス」に作品を発表している詰将棋作家。東京在住の学生です。詰将棋は小学生の頃から作り始め、2009年5月に詰パラ初入選。2015年12月に最年少同人入り(入選100回)。小~院すべての詰将棋学校で半期賞受賞経験あり。2016年4月より詰パラ連載「ちえのわ雑文集」の世話役に就任しました。原稿随時募集中です。

裏短編コンクール
2015年(第n回)・2016年(第φ回)に開催。使用駒数11枚以上、タイトル必須という条件で募集した作品を出題し、解答者に評価してもらうという企画です。結果発表はニコ生で行いました。作品の結果稿はブログ右袖のカテゴリーからご覧いただけます。なお、この裏短コンはほっとさんのブログ「詰将棋考察ノート」に受け継がれました。

今週の詰将棋・
詰将棋ウィークリー

今週の詰将棋は2009年7月からの2年間100題。詰将棋ウィークリーは1012年3月からの50週は幻想咲花さんとのコラボ、それ以降は鈴川単独の出題で2014年3月まで、#100をもって終了しました。解答していただいた方に感謝します。
※81puzzler閉鎖につき詰将棋ウィークリーの記事にはリンク切れが多いです。

解付き出題
自作を解付きで並べていくだけ。現在#120をもって休止中。在庫整理の意味合いが強いので質より量です。

詰将棋あるあるbot
Twitterで、詰将棋あるあるネタを5時間に1回ツイートするbotを作ってみました。ツイート内容は700種類用意していて、たまに更新されます。皆さんもハッシュタグ「#詰将棋あるある」でツイートしてみてください。@TsumeAru_bot

このブログはリンクフリーです。Sine 2009.6.
メールアドレス
makugaeru●yahoo.co.jp
●を@に替えてください。
全記事数表示
全タイトルを表示
最新記事
最新コメント
カテゴリ
検索フォーム
リンク
詰将棋あるあるbot